コミュニティを形成しようとする動機の、最も根本にあるのは「不安」だと思う。
反対に言えば、コミュニティを作ること、コミュニティの一員であることは「安心」なんだろう。
思えば幼い頃から僕らはずっとコミュニティを作ってきました。
この人は「こっち側だ」と思える人が一人でも傍にいると、自分以外の人がうじゃうじゃいる環境でなぜかちょっと自信を持って歩くことができて、陽気に振る舞えたり、大らかでいられたりする。
反対に「こっち側」にいる人が一人もいないとき、私は今一人であるというとき、何となく卑屈な気分になるし、大きな声も出せなくなる。
コミュニティを作るという行為は物心のついていない幼い時から自然に行っていて、大学に行っても、社会人になっても、いくら歳を重ねても、規模の大小はあれ、同じように行われる、と僕は思います。
コミュニティは「自分」の延長であって、「こっち側」が多ければ多いほど自分も実際より大きく感じるから生きやすく感じる。
一人である、ということは反対に実際より自分が小さく頼りなく感じることで、それは実際的な問題よりもっと漠然とした「不安」となって僕らに迫るのではないかと思います。
不安によって形作られたコミュニティ
現代において問われるのは、ただ固まるという領域はとっくに越えていて、コミュニティの継続、コミュニティの能力の最大化の部分が中心だと思います。
噛み砕いて言えば、そのコミュニティ内の人間がみんな心地よく生きるためにはどうすれば良いだろう?という部分。
意識的にコミュニティを作ることができる、もしくは作る必要がある現代では、「固まってるからコミュニティ」ではなく、「コミュニティだから固まる」という理屈の逆転が起きかねません。
「コミュニティ作りそのもの」や「コミュニティの維持」が目的になって、構成員の主体性がコミュニティの飲まれてしまう状態と言えると思います。
不安を土台にしたコミュニティは、かたまることで安心を手に入れる一方、それが崩れることにまた別の不安を抱くことになるんじゃないかと思います。
コミュニティの先
結婚なんかももしかしたら、「コミュニティだから固まらなきゃ式」かもしれません。
「結婚生活を円満にするはお互い自分だけの趣味の時間が必要」のようなアドバイスに見られるのは、コミュニティの維持っていう目的が先にあって、その構成員たるものこうあるべき、みたいな感覚です。
この強迫観念による不安に負けないためには「コミュニティの先」が必要じゃないだろうかと考えました。コミュニティを目的とするのではなく、コミュニティの目的です。
結婚で言えば、例えば「子どもを成人するまで育てる」というようなものが、自然にコミュニティ(夫婦)の共通目的となるかもしれません。
ただ、もっと広範な種類のコミュニティに目を向ければ、その「コミュニティの先」があるだけではまだ洗練されているとは言い難い。
さらに考えなければならないのは、「形を維持するマネジメントなんて意識しなくても自然に継続するコミュニティ」の在り方です。
何らかの意志の下に形成されたものなのだけれど、それがあたかも自然に、クラスで隣の席だったからとか、そういう運命的な理由で形成されているかのように見え、感じられ、ずるずるとうまく行くコミュニティって何だろう?という部分。
コミュニティの核となる「信用」とは
コミュニティの核と捉えるべきなのは、「好ましさ」とか「嫌悪感情」なんだろう、と思っています。
不安感情や目的意識を捨てるのは難しいし捨てる必要もないと思うけれど、そういうものを核から遠ざけることに意識を向けたほうが良いかも、と漠然と考えます。
たとえば僕の個人的な嗜好は文芸であり、そういう場所への憧れがあります。
小説・文学・本棚・書斎・執筆、などなど。
だけどここで言いたいのは、そういう簡単に言葉にできる「好ましさ」ではなく、ちょっとプロフィール欄に書けるような事柄でもなく、もっとファジーなものなんだろう、ということ。
小説が好きな人、もしくは書いたり、派生して芝居や映画が好きな人ってたくさんいると思うけど、僕がそれらを好ましく思う気持ちって、多分漠然とした隣の誰かとは違うと思うのです。
言葉にしようとすると難しいし、言葉にした瞬間ファジーじゃなくなるからするべきでもないと思うけど、まさにそういう言葉にならない部分の言葉にならないが故に少しだけ通じる何かによってコミュニティはできれば良いと思う。
そういう部分で伝わりそうだなという感覚が、この時代で言う「信用」とか「信頼」につながると思うし、信頼できるコミュニティがあるということが、大きな安心につながると思う。
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