島田荘司の御手洗潔シリーズが好きなんだけど、だいたいの話において事件の謎の不可解性、不可能性がこれでもかってくらい作品の前半、ときには全体の3分の2程度を費やして語られるところへ御手洗が現れ、颯爽と解決するってのがお決まりのパターン。
御手洗潔は他のことで忙しかったりやる気がなかったりして現れるのが遅いことが多いけど、現れればたちどころに真相を暴いてしまう。
この鮮やかさがカッコいいのだけど、僕が思うに、御手洗潔は犯人が不可能を可能にした方法を考えるのではなく、可能なところから整合性を保ちつつ全体を考えるという手法を取っていると思う。
この思考法は普通に暮らしててもけっこう大事な考え方に違いない。
不可能や不思議に引っ張られる
例えば、室内で溺死した人間がいたら不思議に見える。容疑者全員にアリバイがあれば不可能犯罪に見える。巨大な建造物が一夜にして消えたら天変地異に見える。
御手洗潔は、溺死したんならここに水があったってことだろって考える。容疑者のアリバイが完璧なら死亡推定時刻が間違ってるんだろうって考える、一夜で消える建造物は分解できるんだろうと考える。
どれもこれも、言われてみればそうだよねってことだったりします。
でも僕らすぐ不可能や不思議に引っ張られて考えてしまう。
手品を見ているときの感じです。コインが消えたり引いたトランプが当てられたら魔法が起こったのだと思う。
だけど種を明かされるとなんだそんなことかって思うし、たいてい、けっこう地味なプロセスだな、練習頑張ったんだな、くだらなすぎて思いつかなかったな、と思うものじゃないでしょうか。
日常でも魔法や超常現象のような解決法があるのだと考えてしまう
本題にして話が逸れてしまうかもしれないけど、僕らの日常における一見不可能なこと、とても困難なことについてを考えて終わりにしたい。
僕らの日常における困難とは、人間関係の構築や修復、仕事の成功、富や名声の獲得などでしょうか。このとき、やはり魔法のような解決や、一足飛びの成就を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。
困難なことを成し遂げるための地味なプロセス、小さな積み重ねを軽視しており、一足飛びに答えに辿り着こうとするようなことはありませんか。
例えばお金が必要なとき「宝くじにでも当たらないかな」って思ってしまうし、モテる男の特徴5選を知ったら明日にでもモテると思ってしまうし、創作においては作りもしないで傑作を作ることを夢見る。
もちろん一足飛びの成就なんてありえないし、魔法のような解決もありえない。
御手洗潔だったらまず現状で可能性のあることを突破口にする。いくら地味でも身も蓋もなくても可能なことを繰り返したり組み合わせたりして達成するしかない。
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