ほとんどすべての文学に共通して語られているものがあるとすれば、それは「アイデンティティと人間関係」だと思います。
アイデンティティと人間関係。
印象に残したいので何度も書くけれど、アイデンティティと人間関係。
物語の主人公、もしくは物語の中心となる人物は、多くの場合、アイデンティティに関する問題を抱えることになります。
そしてアイデンティティとは、他者との関わりの中で生じるものだと僕は考えるわけです。
悩みのほとんどは人間関係に行き着くという言葉があったような気がしますけど、むしろこの「アイデンティティと人間関係」というのは、文学よりはむしろ、「僕らの人生のすべて」と言っても過言ではないと思います。
僕らの人生においてしばしば悩まされる「アイデンティティと人間関係」に関するもっとも濃い部分を抽出したものが、物語とか、文学とか、そういう形で結晶となって保存されているのではないか、と考えるのです。
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物語と人生の根底にあるアイデンティティの問題
アイデンティティに関する問題というのを、実際の文学作品を例に挙げながら、少し具体的に説明してみたいと思います。
すごく分かりやすいと思うのは、カフカの『変身』など。
主人公のゴレーゴル・ザムザはしょっぱなから虫になってしまいます。これがアイデンティティの喪失でなくしてなんでしょう。
阿部公房『砂の女』を読んだことはあるでしょうか。
昆虫採集が趣味の男が、ある集落で蟻地獄のごとき砂の穴の底にある家屋に閉じ込められます。そこには女が住んでいて、共同生活を強いられる。これはアイデンティティの喪失というよりは、アイデンティティが奪われると言った方が良いかもしれません。
また、具体的な作品名は思いつきませんが、例えばニートが突然「これ以上ダラダラするつもりなら来月までに出ていってもらいますからね」なんてお母さんに最後通告を突きつけられ、どうにかせんとならん、って物語のスタート、よるあると思いませんか。
これも「家でダラダラなにもせずに生活する」というニート的なアイデンティティの喪失です。
このように、物語は往々にして「アイデンティティの問題」をはらんでいる。
アイデンティティの問題は人間関係により生じる
アイデンティティの問題と人間関係。文学のすべて
改めてこの記事のタイトルですが、「すべて」というのは少し言い過ぎかもしれませんよね。
それにしても、多くの物語の根底に「アイデンティティの問題と人間関係」が据えられているというのは間違っていないだろう、という確信を前提にこの記事は進んでいます。
アイデンティティの問題ってのが何なのかは先ほど簡単に説明した通りですが、では人間関係というのはどういうことでしょうか。
ここでこの二つを並べた意図は、「アイデンティティ」と「人間関係」は深く結びついていると思うからです。
例えば、人は一人では「親」というアイデンティティを獲得できません。「子」という他者が存在して初めて自分のアイデンティティとなる。
考えてみれば、あらゆるアイデンティティは一人では獲得できないものです。「一匹狼」というアイデンティティでさえ、「群れる奴ら」という概念的な存在がいて、相対的に語られるものですよね。
また具体的な例を挙げるとすれば、僕が好きな文学作品に『痴人の愛』があります。
譲治さんはカフェでナオミを見初めて、「この子を自分好みの立派な西洋風な女性に育てたいなあ」って思って実行しちゃう話です。この例で言えば、主人公は自ら「ナオミの保護者」というアイデンティティを獲得する。
「アイデンティティの問題と人間関係」 「家と結婚」 『細雪』
谷崎潤一郎繋がりで言えば『細雪』も「アイデンティティと人間関係」について書かれている作品だと思っています。
『細雪』と言えば大阪の旧家「蒔岡家」の4姉妹が中心にいる物語なわけですけど、かつてはそれなりの名家で通っていた蒔岡家の、退廃していく美みたいなものが背景にあります。
そこで実質的な主人公である「雪子」の結婚がどうこうという話が物語のフックというか、一つの見どころになっている。雪子は結婚に対してなかなか煮え切らないわけですけど、背景に「蒔岡家」というアイデンティティがあることを認識していると、いろいろと見えてくるものがある。
姉は早々に家を出てしまったし、妹はそんなん関係ないって感じでスキャンダラスな恋をしたり人騒がせだし、雪子は強い自己主張はしないまでも「家」というアイデンティティに固執、もしくは自分が守らなきゃ、という認識が、言葉にできないレベルであったのではないか。
それにしても「家柄と結婚」って「アイデンティティと人間関係」そのままですよね。
ちょっと書きすぎかもだけど、「アイデンティティに対する認識」ってのも人によって違うって話でもあると思うのです。
妹の妙子はなんか現代的で、「周りの評判とか家とか関係ない、好きな人と恋愛して結婚するんや」って感じだし、雪子に縁談を持ってくる姉たちなんかは「雪子も良い年なのに結婚してないなんてみっともない」みたいな意識が多分強くある。雪子はさっき書いたとおり。
つまり、アイデンティティが多かれ少なかれ必ずブレる結婚というものと、土地の文化や国の情勢っていう大っきな他者との関係、そしてそれらに対する認識のグラデーションを四姉妹を通して描いた作品が『細雪』なんじゃないか、みたいな読み方ができる。
「アイデンティティの問題と人間関係」が根底にあるが、語りたいのはもっと表層的なものの場合がある
いい加減しつこいかもしれないけどこの「アイデンティティの問題と人間関係」が多くの文学の根底にあるって話、僕はすごく大事だと思うし何より面白いので、もう少し話を続けさせていただきたい。
あくまで「アイデンティティの問題と人間関係」ってのは根底にある、ということで、すべてがそれらをテーマに語られているわけではないということに注意が必要です。
僕らの人生も根底に「アイデンティティの問題と人間関係」がある。けど、それぞれの人生のテーマはそんな大きなものに支配されてるわけじゃないじゃないですか。恋に悩んだり、仕事に悩んだり、お金に悩んだりする。やはりその根底にアイデンティティと人間関係があることは間違いないけど。
例えば「親友が好きだと言ってる人に告白されてしまった」という状況で、恋を取るか友情を取るかみたいな話が表面的には展開されるわけだけど、その根底にあるのは「自分はいったいどういう人間なんだ?」というアイデンティティに関する問いですよね。
もしくは、「お金が絶対に必要だ」という状況。僕らの日常でもよくある。ここで、「お金は必要だけどこういう商売に手を出したら自分が自分じゃなくなるな」みたいなアイデンティティによるブレーキが働いて、できることとできないことが生じる。
お金のことが現状の大テーマだけど、根底にアイデンティティと人間関係がある。ね?
(人生と)文学の根底に「アイデンティティの問題と人間関係がある」と思いながら作品を読むと、逆にそれら以外のテーマが浮き彫りになってくるわけです。
例えば、という話は次章でしましょう。
「アイデンティティの問題と人間関係」とはちょっと別のものを語る作品
夏目漱石の『こころ』は大変有名な作品ですけど、「先生」が何者なのか、「私」が何者なのか、よく分からなくないですか?
私の名前は分からないし、先生は何故「先生」なのかもよく分からない。
アイデンティティもクソもない話だと思います。変ですよね。「先生と私」の関係とか、先生や私のアイデンティティの話なのだとしたら、もっと違う話になっていたと思う。だけどあの話は用心深いと言って良いほどに、むしろ「アイデンティティの獲得」を退けようとする人間を書いているように僕は思う。
三島由紀夫の『金閣寺』は?
川端康成の『雪国』は?
宮沢賢治の作品は?
根底に「アイデンティティの問題と人間関係」というものがあると考えれば、かえってそういうものを避けているという意図が浮き彫りになって、読む取っ掛かりになるんじゃないかなって思うのです。
今日の記事を書きながら、ここで挙げた作品を改めて読み直したくなったし、読んで分析したヤツはブログに書きたいなあ、という欲。
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