田舎の未来 生き方の正解

発想と行動を記録する

一か所に依存するのは非常に危険だということは分かり切っていることです。

特に経済的な話の文脈で顕著だと思いますが、昔のように終身雇用が当たり前の時代ではないのですから、収入源の分散を推奨する気配が高まっています、というか政府が副業を勧めるんだからもうそれだけで非常事態みたいなとこありますよね。

ちょっと前なら倒産した企業に勤めていたとなると不運で済んだかもしれません。時勢に飲まれ苦境に陥れられたで済んだかもしれない。

しかし段々と認識は変化していきます。

一か所に依存し、その他の道に保険をかけておかなかったのが愚か。会社が傾いたときに首を切られる仕事しかしてなかったのが悪い。なぜ沈没すると分かっていた船に乗り続けていたのか。定年が迫った年代ならともかく、30代、40代では憐みよりは軽蔑の見方の方が強いのではないでしょうか。

僕も人のこと言えないけど。去年の今頃職を失ったばかりだし笑

まあなんにせよ、僕らの人生に「こうしとけば安心」「ここにいれば安全」みたいな絶対解はなくて、解を示すとすれば「臨機応変に対応すること。以上」ということになります。

いやいやそれが難しいんよね、もう不可能に近いんよね、という話を書いた上で、田舎の未来、コミュニティとはなんだ、将来の生活ってどうなんだろう、僕らの正解は?という話をもりもり気分の赴くままにしていこうと思います。

少し長くなりますから適当に飛ばして読んでくださいね。

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臨機応変ってなんですのん。

臨機応変に行動っていうけどあんた、「機」ってなんですのん、って話をまずしたいですよね。

ここが瀬戸際だ、ここが見切り時だ、ここが境目だ、というラインを見極めることでしょう。

もしくは、ここで状況が変わったぞ、ここで流れが変わったぞ、という空気感を得て、なおかつすぐ行動に移すことでしょう。

スポーツや仕事でやっていることではあるから臨機応変ってどういうことかってのは誰しも分かると思うけど、それは限られたフィールド内で行われるスポーツや、職場だからできることであります。

「生き方」とかになるとスケールがでかすぎて、対して観測できるスケールが小さすぎて、どうしても後手に回ってしまう。

だからそもそも後手に回らずに済むよう世界の観察と半径50メートルの範囲の観察を怠らないようにしなきゃならないんだけど、そんな時間ありますか?余裕ありますか?ってことになってしまう。

世界情勢、日本の情勢を観察する時間に加えて、センスも必要になる。

情報を取捨選択するセンス。ここも分散が必要になる。誰かひとりの言ってることを鵜呑みにして動いたら簡単に陽動されてしまう。素直な人ほどでたらめに唆されて無意味なことやときに愚かなことをしてしまう。けど、そんなの自分の頭で考えないのが悪いんだろって話にもなる。

じゃあどうやって自分の頭で考えるんだよってところから始まったりする。とにかく本を読めとか言われて、話題の本をとりあえず買ってみたりするうち、気づいたら誰かがまとめた書籍で気になったヤツばっか買ってて、そもそも自分で本を選ぶ力もねえわってことに気付いて愕然としたりする。

僕らはたいていが無力。だから何かしらに依存しなければならない。言い方を変えれば、僕らは誰も一人では生きていけない。ものは言いようで、これは肯定すべき認識だと思う。

だけどそこに主体性がなければ、誰かの声に踊らされて、右往左往して、なんやかんや分からないままに誰かがどっかでゴールを決めてたりして、自分の足元にボールが転がってきてもシュートなんか決められない、だってゴールがどこか教えられてないんだもん、みたいなことになるわ、教えられることじゃねえんだわ、って話になる。

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僕らは分かっててもできない

主体性という話で言えば、少々難しい問題がある。

僕らは分かっててもできない、ということが往々にしてある、ということ。

例えばブログ界で言えばちょっと前、「仮想通貨バブル」がありました。

仮想通貨の取引が熱いって話になって、「仮想通貨持ってた方が良いよ、なぜなら」という論調に飲まれて口座開設する人がいっぱいいたんだけど、その口座開設の顧客獲得マージンでめちゃくちゃ稼いで、実際に口座開設者も増えるから仮想通貨も過熱して利益が出たりして、ウハウハって状態。

僕は指くわえて見てたんだけど、できないっす。

仮想通貨が出てきたときは「うまく使えば田舎と都市の経済循環の差が埋められるかもしれない」って心躍ったものだけど、ただの金融商品になってしまった。しかもそうなれば実態のない金融商品です。バブルなことは最初から誰もが分かってたから、カウントダウンが見えない時限爆弾の渡しあいです。

仮想通貨をこういう風に使えたらってことを書きなぐった記事です↓↓(これ驚くことに18回しか見られてないんだぜ。すごい書いたのに。この、今書いてる記事もそうなるかも)

地域と仮想通貨と僕らの選択可能な未来について。
とても長い記事をダーッと書きます。書きすぎです。たまに発作的にやることです。いつかの記事にも書いたけど、僕は「日常の中の非日常より、非日常の中の日常」を作りたいと思ってやみません。僕が今やってることすべての最終目標はこれ。この「日常の中...

稼ぐことは資本主義の絶対正義だから稼いだ人を蔑みはしないけど、みんな誰しも「これに手を出したら自分じゃないな」みたいな領域ってあるじゃないですか。

自分って意外と自分以上に拡張されてて、例えば住んでる場所とか、仕事とか、性格とか、行動とか、そういうものと密接に結びついてる(反対に言えば、バブルと分かってても仮想通貨に手を出さないわけにいかない、って人もいるってことなんすよね)。

自分ってものは自分が決めてるからいつでも簡単に変えられるんだけど、自分ってのは思ったより大きいから、口で言うほど簡単じゃない。

僕らが自分の人生を歩むには主体性を持って情報を取捨選択する必要があるけれど、主体性を持っているばっかりに行動に制約がかかることがある。

臨機応変ってだから、めちゃくちゃ難しいことだと僕は思います。機に応じて軽やかに自分を脱ぎ捨て、新しい自分になるなんて、普通できるもんじゃないです。

「ギリギリまでやらない」という僕らの厄介な性質が臨機応変を難しくさせる

さらに、僕らがもつ厄介な性質に、ギリギリまでやらない、というものがあると思います。

「できるだけ長くいつも通りでいようとする性質」ってのも僕らが臨機応変に動けない理由になりますし、僕らが崩壊する理由になります。

例えば南海トラフ地震が起きることが分かってるのに東京に居続ける人のことを勝手に心配していたりします。

もちろん、先ほど書いたとおり、分かっててもできないとか、分かってはいるけど自分は決してそれをやらない、みたいな領域があるので、理解できないわけじゃないんだけど、怖くないのかなって素朴に思う。

でもよく考えたら、都市直下型の地震があったらどんな田舎にいたって無事で済むわけないんですよね。

他国の人から、なんでそんな地震大国に住んでるの?ワイジャパニーズピーポー。って言われても、よし来週海外移住するかってならないじゃないですか。スケールは違えど同じことです。

結局僕ら動くってことがなかなかできない。頭で分かっていても精神がそれを許さなかったり、頭で分かってるつもりでも結局「そのとき」にならなかったら理解できなかったり、頭で分かってるし心も傾いているのに、ギリギリまで動こうとしない性質がある。

ここから「田舎の未来 人生の正解」の話がはじまるよ

ここまでをざっくりまとめると、僕ら臨機応変に動くってのがどれだけ難しいかってことを書いてました。

ここからはタイトルに立ち返ってみます。「田舎の未来 人生の正解」

いわばここからが本題なわけですので長いですよね。嫌になっちゃうだろうしブログ的にもアウトなんだろうけど、僕長いの書く方が得意だし、楽しい。最近長いの努めて書かないようにしてたんだけど、やっぱり楽しい。

まあいいそんなことは。

僕がこのブログを書き始めた当初は、「田舎(というか僕の町)」に人を集めることがミッションにありました。

そういう話から始めなきゃなりません。

いわゆる「まちづくり」とか「まちおこし」がブログの主要テーマだった。

だけどいつからか、世で使われている「まちづくり」「まちおこし」という言葉が僕のやりたいこととは異なるということに気付いて別のテーマを探すことになりました。

これらの言葉にある「町の商業的な成功を漠然とゴールに据える感覚」や「とにかく人を呼び込み来訪者や移住者の獲得を目的にする感覚」が何となく僕に合わなかったのです。

町が会社であれば数字は大事だと思いますし役所が気にするのは体裁だと思いますが、そこに暮らす人々が町の未来のためにやるあれこれが、ビジネスというにはさほど戦略的ではなく、趣味というには熱量が足りない、まちづくりのためのまちづくり、まちおこしのためのまちおこしという様相になってるように見えた。

「とにかく集まって話し合う」とか「地元の高校生発案のなんちゃら」とか「ドローンで地域のPR」とか「なんちゃらアート」とか、「誰のための」という視点が著しく欠けた、やってるだけの二番煎じ三番煎じの繰り返しになった。

僕らが守らなければならない、もしくは作らなければならないコミュニティの本質は、セーフティネット

「まちづくり」や「まちおこし」に疑問を感じた僕は、まちの未来のため、本質的に大事なことは何だろうと考えるようになりました。僕にとって大事なもの、町にとって大事なこと。

僕らがまちの未来を考えるときにはずしちゃいけないものはなんだ。

それはまちのコミュニティとしての未来です。

地域の衰退で生じる危機はコミュニティの崩壊であり、僕らは既存のコミュニティを守るかもしくは新しい形のコミュニティを作らなければならない。

ここまではみんな口をそろえて言う。ではもっと深堀して、コミュニティとは何なのか、という話はあまりしようとしない。

コミュニティとは(僕が思うに)それぞれの人生におけるセーフティネットであり、コミュニティが崩壊する本質的な危機というのは、人生におけるセーフティネットが機能しないということになる、という風に考えました。

セーフティネットというのは具体的にどういうことなのかというと、例えば葬儀などがあった際、隣近所の方にお世話になる、というようなことは代表的なものだと思います。

このように、お互い様なことが起きた時は隣近所で助け合おうという空気は、それぞれのコミュニティにより濃淡はあれど、存在するものではないでしょうか。

もう少し直接的なお金などに関わる制度で言えば、「無尽」と呼ばれる古くからの風習が生きている地域もあります。

コミュニティ内で幾ばくかのお金をおさめ、積み立て、順番に受け取ったり、全体の行事で使ったり、くじで総取りをするという趣向で定期的に還元したりと、金銭的なセーフティネットを設けているところもあります。

この記事でのちにお話ししたい核心は、このコミュニティ内の相互扶助の在り方が今後もっと多様になるだろうということが一つ。

もう一つは、コミュニティを自らの意志で選び、複数のコミュニティに所属することができるようになったのが現代の特徴なんだ!ってこと。

さらにコミュニティの本質的な部分を考える。コミュニティの核はコミュニケーション

核心に向かう前に、もう少しじっくりと考えます。町とコミュニティについてです。

コミュニティとはなんなのだ?ということをさらに考える必要があります。

それはセーフティネットだと先ほどは言いましたが、なぜコミュニティがセーフティネット足りえるのか。

もしものときに助け合えるというのはもちろんそうなのですが、もっと本質的なところに立ち返る必要があると思います。

僕はコミュニティとはコミュニケーションの総体である、と考えました。

コミュニケーションが健全に取れている状態こそがコミュニティを形成している。

さきほどちらと書いたことと合わせると、コミュニティは構成員間で共有しているアイデンティティやルールがあり、なおかつコミュニケーションが健全に働いている状態の何かを指す、という風に考えることができます。

コミュニティがあるから安心、なのではなく、その構成員の中でコミュニケーションが適切に行われるからこそ安心なのです。

それは問題の察知、問題の深堀、解決策の模索、そして実行と言った、僕らの人生に降りかかる難問に対する解を導く力になるからです。

このあたりのことを考えると面白いです(少なくとも僕は)。

例えば以下のような記事に詳しく書きました。↓↓↓

長いので読めとは言いませんがタイトルだけでも目を通してみてください。

なぜ夫婦は離婚し、カップルは別れるのか。それはきっと文明が崩壊する理由と同じだ。

なぜ夫婦は離婚し、カップルは別れるのか。それはきっと文明が崩壊する理由と同じだ。
「文明はなぜ崩壊するのか」という問いに出会って、はじめに参照したのはジャレド・ダイアモンド著『文明崩壊』でした。文明崩壊(上巻) posted with ヨメレバジャレド・ダイアモンド/楡井浩一 草思社 2012年12月...

 

町が衰退している。若者がいなくなっている。祭りやイベントが開催できない。税収が落ち福祉が行き届かない。

このような問題が田舎町には起こる。

さきほどリンクを貼った記事の中には、文明崩壊の根本原因は思考停止とレスコミュニケーションだ、ということが書いてあります。そしてそれは文明というレベルだけでなく、夫婦間とか恋人間との関係が崩壊するのと根本は同じ、ということが書いてあります。

問題の根本を共有せず、構成員の一方もしくは両方があまり考えず、とりあえずの答えに飛びつく文明(と人間関係)は崩壊する。

僕が各地域が行う「まちづくり」や「まちおこし」が違うと思ったのは、多くが「とりあえずの答え」に見えたからです。

それはコミュニティの自己肯定でしかなく

漠然と地域を盛り上げようとするほとんどのことは、僕にとって関心のないものでした。

それは何のためのものなの?ということは、問えば理屈っぽくて感じ悪い印象にしかなりません。

祭りとかイベントとか商品やPRの企画とか、町民レベルで何となくやる上で、コミュニティ内で「俺たちやってるよな感」を出す以上の効果はないと僕は感じます。

「まちづくり」とか「まちおこし」もしくは「地域活性」という言葉は目的でも目標でもなくただのスローガンとなり、それが書かれた旗の下、「みんなで町のために頑張る」ということがしたい。そうするとなんか安心。

コミュニティが結束した感じになるし、互いの信頼が厚くなる気がする。

これはコミュニティが相互扶助もしくは相互協力の役割を十分に果たしている状態において必要な営みではないかと思うのです。

定期的に親睦を図る、みんなで協力して大きなことをする、町(コミュニティ)の未来を語る。機能しているコミュニティにとって、こういった営みはコミュニケーション促進という意味で役に立つ。

それは自己満足で良い。むしろ自己満足こそが至高。自己満足じゃなきゃダメってくらい。

傍から見て、あのコミュニティは楽しそうだな、仲良しだなって思われること。他のコミュニティより充実してるというある種の優越感を得ることができれば最高。それは自分が属するコミュニティを好きになることで、自分のことが好きになることでもある。

自分の肯定、コミュニティの肯定。この両者が互いにかみ合って、くるくる回る状態が理想。

各地域は言わば、この状態を取り戻そうとしている。

産業や商業の衰退、人口全体の老化、若者の流出。そういった、時代の流れにより生じた自信や自己肯定感が奪われる現実に抗おうとしている。

これも底の方には「できるだけ長くいつも通りでいようとする性質」がある気がします。昔のように町を盛り上げよう、今までのように何かで注目されよう。

その精神性の上で語り合われることが、今この時代で求められる解決策を見出す結果にはつながらないと感じます。

それぞれが自分に合ったコミュニティを選ぶ必要がある

コミュニティとかコミュニケーションとか書いておいてなんですが、僕は地域のお祭りや話し合いに一切と言って良いほど参加しないです。

興味がなく、大勢で騒ぐのも騒音も好きじゃないし、みんなで話し合うのも嫌いだからです。

まちは「みんなで考える」のも「子どもに未来を考えさせる」のもやめるべき
高齢化、仕事減、人口減、税収減、まちの衰退、コミュニティ崩壊の危機は日本全国どこでも、大なり小なり直面している共通問題と思われます。「○○町の未来を考えるワークショップ」みたいなことが各地で催されていると思うけど、みんなで話し合っても問...

お前が一番コミュニケーションを避けてるじゃないか!と言われそうです。実際に避けてます。一定量以上の人と会うとその後の消耗が激しく、日々に差し支えがあるので25歳を越えてからは決して無理をしないようにしています。

僕が極端に社交性に乏しいことはコンプレックスの一つではありますが、一方で開き直っている部分があるし、この、「コミュニケーションの取り方や在り方は人ぞれぞれ」という部分にこそ大きなポイントがあると思います。

僕らはみんな違う。当たり前のことかもしれませんが、違いが無視される場面というものがあります。

「町」もその一つです。「学校」もそうです。「部活」や「サークル」と言ったもっと小さい場面であればもっと強いかもしれない。

いずれも「コミュニティ」です。コミュニティにはアイデンティティがあり、ルールがあります。そして場に適応するためのコミュニケーション法がある。

運悪く、自らが属するコミュニティのアイデンティティやルールと反りが合わなかったら?

運悪く、そのコミュニティからは抜け出せない設定になっていたら?

僕らはそういうリスクを負っているけれど、生身の身体が一つで、他ならぬ魂が身体に依存しているので、どうしてもミスマッチは起きてしまう。

冒頭では主に経済的な面において、僕らはリスクを分散するべきだみたいなことを書いたけど、自らのアイデンティティを育み守るという面においてもリスクは分散できてしかるべきだと思う。

町が画一的なアイデンティティで均されてしまう場面

「学校」よりは規模が大きくなるけれど、「町」も同じように、ある種のアイデンティティで人が均される場面があります。

それは「町」をコミュニティとして意識した瞬間です。普段はそうではないのに、「町について語り合う」と言ったときなどは「町」はこうあるべきだ、という漠然とした社会的な期待に基づいて自らを定義してしまうことがある。

しかし、「町」はほとんどが地縁や偶然によりたまたま所属してしまったコミュニティにすぎません。そういう意味で学校に似ている。

つまりそもそも共有のアイデンティティなどなく、明文化されていないルールなどなく、たまたま区画上○○町民になっているだけだったりします。

こんなただ、個性とそれぞれの暮らしの寄り集まっただけのコミュニティとも言えないコミュニティに、衰退に際して、無理やり共通のアイデンティティを作り、肯定感を回復しようとすることが「まちづくり」や「まちおこし」の実際だと思います(しかも目指すのは本質的に過去の姿だったりする)。

ああ、段々ややこしい話になりそうなので気を取り直しますが、何が言いたいかというと「町」で一体となるのは無理だし、すべきでもないと僕は考えている、ということ。

人ぞれぞれの違いや個性の存在が認められ、多様性の尊重が問われる現代であればなおさら、まちづくりやまちおこしと言った言葉自体がもう古い。

ここからさらに展開したいのは、「だから今後、コミュニティは選ぶようになる。それも複数」ということ。

自分に合ったコミュニティへの参加がオンラインサロンなどのサービスで手軽になった

例えば最近では「オンラインサロン」の運営がブームだったりします。

これだって「コミュニティ」ですよね。

強力な個性、魅力的なリーダーがいて、その人が作る仮想の場、仮想の人の輪に参加しましょう、というものです。

様々なオンラインサロンがあります。何かを学ぶためのサロン、何かを一緒に成し遂げるためのサロン。

言わずもがな、好きなところに所属します。自分に合ってる、自分の人生が良くなると信じたところに入会します。

住む国や町のように、誰かに勝手に決められるものではありませんし、出入りは自由であり、なおかつ複数のサロンに入っちゃいけないなんてこともありません。

現状、サロンの運営者にお金が集まるシステムになっているところが多いと思いますが(つまりビジネス色が強いですが)、そのお金の還元方法というか使い方は多岐にわたるでしょう。

きっと共通するのは、サロンメンバーの人生をよりよくするために使うことだったりするのでしょうが、先ほど挙げた「無尽」のように、積極的にセーフティネットやメンバーのチャレンジ資金として会費をプールする、という方法もあり、サロンメンバーであればとりあえず死にはしない、という安心を与えることも可能です。

オンラインサロンの良いところ

オンラインサロンの良いところは、今生きている場所を問わないということが一つ。

もう一つは、自分の個性や在り方にあったコミュニティを主体的に選べるということが二つ目。

その他にも長所はたくさんありますが、とりあえずこの二つがこの記事では重要です。

条件としては、メンバー間でコミュニケーションを取るにあたりオンライン環境が必須であり、サロンメンバーが自分に合った場所なのか?を知るため、中心メンバーの個性や考え方を積極的に発信することが必須というようなものがあると思います。

例えば僕がオンラインサロンを運営するとします。

少なくとも僕がブログで書くこういったことに耐性?なんていうか、共感までいかなくても楽しいなとか、そうだよな、くらいに感じてくれる人が入会するのは間違いないです。

そもそもここまで読む人がどれだけいるかって話ですが、この記事をここまで読んだ上で、僕とは気が合いそうだ、という人がメンバーになるわけですから、僕にとっても安心だし、メンバーになろうとする人もある程度安心なはずです。

ツカダならこういう話付き合ってくれるだろう、みたいなのが生じるわけです。

コミュニティの核はコミュニケーションだと書きましたが、この人とならこういう話ができそうだ、考えてることが伝わりそうだ、問題が共有できそうだ、という点がものすごく大事だと思うのです。

以下の記事は先ほどの「なぜ夫婦は離婚し、カップルは別れるのか。それはきっと文明が崩壊する理由と同じだ」の続きのような記事です。

「そもそも問題を正しく共有する」ことができれば問題は解決したも同然なこともあるが、実際には価値観や世界観の違うもの同士、問題の共有こそがめちゃくちゃ難しいって話。

404 NOT FOUND | カキコミタウン! 
人間と人間、人間と場が作り出すものについて考えるブログ

そもそも似てる価値観同士が引き合いやすく、かつオンラインであるがゆえに文章などでのコミュニケーションが密になるオンラインサロンは、今後より活性していくと思います。

町のようなコミュニティが不必要とは言ってない。誰かが選ぶ、数多くあるコミュニティのうちの一つになる

とは言え「町」のようなコミュニティの形が必要ないとは思いません。

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉がありますが本当にその通りで、地縁というのは決して馬鹿にできるものでもないし、疎かにして良いものでもありません。

さきほど書いたように、僕らは「コミュニティを主体的に選ぶようになる」。

オンライン上に様々なサロンがあったりして、そういう場所を選ぶという意味ももちろんありますが、これはどちらかというと精神のための、精神の拠り所を分散することであります。

僕ら肉体を脱ぎ捨てるわけにもいかないのですから必ず身の置き所を決める必要がある。

それが地元にせよ、何かの縁で好きになった地域にせよ、僕ら肉体を置く場所を選ばなきゃならない。

また、僕らの命はどうしても肉体に依存してしまうのだから、身体が健全でいられる場所を選ばなきゃならない。

そういう意味で、田舎の未来というのは決してくらいものではないと思います。

コミュニティを選び、セーフティネットを選び、人生をアレンジする

さて田舎の未来の話です。

これまでも僕らいくつものコミュニティに所属していたと思うけれど、今後は色々な意味でもっと幅広く、コミュニティを選んでいくことになります。

肉体のためのコミュニティ、精神のためのコミュニティ。そういう意味での幅でもありますし、現実と仮想という意味での幅でもあります。またコミュニティの大きさや体質の幅も選ぶことになるでしょう。

僕ら自己理解を繰り返しながら、誰かとのコミュニケーションを求め続け、迫りくる雑多な問題を、大きな問題を解決する方法をアレンジしていかなければならない。

いわばそれこそが生き方の正解であります。

いや、依然生き方の正解なんか分からないけれど、問題に対して共有感覚を持てるコミュニティを複数持ち、問題に応じて軽やかにシフトしていける環境を作ることが最大のリスクヘッジだと思う。

「町」は、そんな誰かのパーツの一つになるべきだと思うのです。

何もかもなんて無茶な話です。身も心も精神も肉体も思考も行動も何もかも満たされる場所が一つで賄えるなんて思えない。実家とかが惜しい感じがするけどやはり何もかも満たされるわけじゃないですよね。

誰かの人生のこの部分を支えるコミュニティの一形態。誰かが主体的に選んだコミュニティを内包する場所。

それの総体が町だと思います。

結局僕の話になってしまうし僕の考えに拠ってしまうけど、僕が目指すのはそんな町の中で誰かの人生の一部になるためのコミュニティづくりであり、それが僕にとってのまちづくりです。

オンラインサロン的に人と出会い、生身の肉体を運べるリアルな場所として存在する

とはいえ、文脈的にそう考えてしまう人もいるかもしれないけれど、僕はオンラインサロンを運営する予定もつもりも今のところないです(そんな器じゃないし)。

僕は僕にできることを、ということで、考えた結果落ち着いたのは、オンラインサロン的に人と出会い、生身の肉体を運べるリアルな場所として存在するということです。

ご覧の通り、僕の考えや価値観は文章で発信していて、少なからず気が合う方とオンライン上で出会うことができるようになっています。

そして実際の場としては、自分の家で民泊を営んでおり、お客様を招くことができるようになっている。

創作合宿のための民泊「随‐まにま‐」について
道北に位置します、士別市朝日町というところで民泊を営んでいます。夫婦で住む一軒家へ招くことになるので、しばし同居、というスタイルになります。冬季が厳寒ということもあり、バスルームなどの利用で苦痛を強いてしまう恐れがあるため、5月~1...

これは少し性質が偏っていて、主に「僕と話がしてみたい」という方や僕と母の親子で管理している「旧佐藤医院」というコミュニティスペースに興味がある、という方に対して開かれたサービスです(民泊の本来の意図とは違うかもだけど)。

ありがたいことに、昨年は僕と話してみたいという方と数人出会うことができました。何となく僕の考え方にシンパシーを感じてくださったり、共通点を見出してくださる方がいらっしゃる。もちろん僕はそういう方からのご連絡がうれしいですし、そういう方とコミュニケーションを取れることは非常に興味深いです。

また、昨年は「旧佐藤医院」を利用したいという問い合わせも増えました。

それも主体的に「こういう意図で、こういうことをするために使いたいのだけど良いですか」という風に問い合わせてくれる方が増えました。ご自分で情報を探して、連絡を取ってくれるのです。主体的に情報を取捨選択する、という能力に秀でた方とお会いできるわけです。

なおかつ、民泊とコミュニティスペースの利用を抱き合わせることで一度に対応できる人の数を限定することができるという利点があります。僕は大勢が苦手ですし、以下のような閉じられた世界観を作りたいと思っていますからね。

https://www.kikikomi.info/no-body-knows-our-community/

その話は置いといて、ここにいらっしゃる人には、もしかしたら他の人とは話しにくかったり伝わりにくい話ができる可能性があること、そしてコミュニティスペースの利用を優先的にアシストすること、と言ったサービスを提供することができます。

僕の考え方や行動のクセ、そして旧佐藤医院という場所の価値観を通して、即席的で一時的なコミュニティを築く。

それが、今のところ進行してる僕のまちづくりです。

セーフティネットとしての小さなコミュニティの未来

今のところ、僕周辺は一部の方のクリエィティブな気持ちや行動のはけ口として機能しているコミュニティですが、極端なことを言えば、「その気になれば自給自足ができる」というコミュニティが今後は最強だと思います。

自給自足と言えばいくらか野性的で原始的な生活を想像する方もいらっしゃるでしょう。

実際そういうのも良いですね。コミュニティ内で家畜を少し飼い、少々ならば浄水や発電も可能な状態を作っておく。それらに関連する知識を得たり、準備をしたりするのは本当に必要な備えだと思います。

現状、庭で採れたお野菜を来ていただいた方に食べてもらう程度のことはできますが、ここに居れば安心、というレベルにはまだまだ達しません。今後10年の目標ですね。

それとはまったく別のベクトルで、もっと精神的な自給自足のシステムも作りたいものです。例えば、僕が作ったコミュニティ内で仕事ができるとか、僕を利用してご自分の作品の宣伝ができるとか、そういう利点を作るのは是非とも必要なこと。むしろこちらが本筋。

なかなか難しいことですが、そのためにも僕は積極的な発信を心掛けるつもりです。

このブログに加え、最近はyoutubeでの発信にも力を入れ始めました(少々遅かったですね)。旧佐藤医院が舞台です。

【ルームツアー】本を読むための部屋と屋根裏書斎のルームツアー|room studio tour

まだまだ試行錯誤の真っ最中ですし、僕が構想するコミュニティの形が正しいのかもわかりません。

考え方も変わっていくと思います。

しかし、長い間このブログを通して考え、自分の気持ちと折り合いを付けながら選んだ方法がここまでお話してきたことになるので、そういう意味では自信があります。

万が一ここまでこの文章が読めて、なおかつ僕の考え方に共感のような感情を持ったのであれば、ぜひ今後とも応援よろしくお願いします。

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