5月は僕のもっとも好きな時期。気持ちが良い。厚すぎず寒すぎず、緑がまぶしい。5が好き。僕は5月生まれだし、月は違うけど妻の誕生日は5日、娘の誕生日もやはり月は違うけど25日、5がはいってる。中学高校と打ち込んでいた野球部でのポジションはサード(背番号5番)。よって青春の数字でもある。5が好き。5という数字を見るだけでうれしくなる。
好きになると過剰に良く見えるのって人の性だと思うけど、なんか5って切れ味が良い気がする。これを書いている今日は5月20日。良いね、5で切れる。僕は5に縁があり、5が僕を守ってくれているような気がするし5を携えているだけで強くなった気がする。
イメージとしてはウルトラマンジャックが持っていたウルトラブレスレットのよう。いやあれはチートアイテムすぎるから違うかもしれないけれどそれくらい5のことを信頼してるってこと。
であるはずなのに5月15日以降体調が悪く、これはどうやら胃腸炎らしい。5日が過ぎた今朝やっとパソコンに向かう元気が出てきたところ。
何を書くというつもりもなくただしばらく読み書きと離れてモヤモヤしてたのでリハビリ的にあれこれと、あることないこと、基本的に胃腸炎に苦しめられている間に考えたことを日記書きます。マジでただの日記で、いわばブログのネタ探し的にいつも頭の中で考えてることを文章化していってる感じで書きます。
ちなみにウルトラブレスレットがどれくらいチートアイテムなのかってことに興味がある方は以下の動画などで確認されたし。
休息
胃腸炎に苦しめられている間に考えたこととは言ったものの、体が極端に弱ると考える力は皆無となり、文字を書くことはおろか本を読むこともできず、布団の中でプライムビデオやyoutubeを見漁る日々を過ごしていました。
一番驚いたのが読む書く行為がすべて見事にストップしたことです。まったくその気にならない。
書く仕事ならば身体の弱い僕の体調が悪いときでも仕事が続けられるだろう、歳をとってからも仕事ができるだろうと思い足を踏み入れたわけですが、ふたを開けてみれば体調が悪いとき文章なんて書けねえどころか読むことさえままならない。
なんということだ、僕は今までこんなに体力を必要とすることをしていたのか、と気づいたし、なら体力あるうちにしか書けないこと、読めないものがあるってことだなって思ったのが大きな収穫でした。
あと、これはもう正直完全に気付いていたのだけど、僕は身体が弱いんじゃなくて、自分の不調にめちゃくちゃ弱いんでした。
自分の身体に異変や不快があると全部ほっぽり出して用心するってのが染みついていて、よく考えたら僕そんなに病気になったことないし、大けがをしたこともない。身体弱いという事実は客観的にはない。
ただ普通の人なら休まないだろってレベルのところでめっちゃ休むのが僕。主観的にはめっちゃ辛いから休むんだけどね。
おかゆみたいな文章
体調が極端に悪いときは読み書きできなかったんだけど、少し回復してくるとWEB記事とかなら少し読めるようになりました。
ただこの、復調はしてないけど元気が出てきたってタイミングでは少なからず刺々しい一面が出てきて、何気なく読んだ文章に内心おかゆみたいな文だなって感じて無性にイライラとしてしまうことがあったことに驚きました。
おかゆみたいってのは「優しい」とか「ゆるい」とかましてや「エモい」とかそういうプラスの意味では決してなくて、噛み応えも引っかかりもなく、あとは飲み込むだけ、みたいな状態にされた状態の何かってこと。
普段はただ読まないだけ、忘れるだけの文章になぜこれほど苛立たされるのか。
ましてやこんなこと絶対ブログに書かない。じゃあお前のこの文章は何なんだ、お前が書くものは優れているのかって言われるのは嫌だし言われたらぐうの音も出ないですからね。
ただ今は病気と精神の記録として書いておいても良いかなと思ってる。この苛立ち。トイレで読んだ、小説と書いてある文章らしき文章。間違った、小説らしき小説。
こんなのは小説じゃない、作り話だ。いや作り話ですらない、本当にあったわけじゃないってだけの話だ。いや話じゃない、意味が通るだけの文章だ。
くそ、くそ、くそ、なんだこれ。
病院に行く判断
病院には行ってない。最初は胃腸炎だと思ってなかった。一番辛いとき、どこが辛いのか分からなかった。頭と足腰とおなかが痛い。
一番痛いのは頭で、次に足腰が痛くて、おなかはついでになんか調子悪いみたいな感じだったけれど、頭痛が取れたらはっきりと原因が腹にあることが分かりました。腹に原因があると分かると腰が痛いのも腹のせいだと理解できました。
復調してきて思ったのは、「病院行かなかったのって駄目な判断じゃないか?」ってこと。
「あれ、これもし感染性の胃腸炎だったり、もっと感染しやすい菌が原因だったら、僕のせいで一家全滅してたんじゃない?」ってこと。
胃腸炎の可能性に気付いた段階で病院に行って、原因菌を特定して、家内感染を徹底的に防ぐことをもっとちゃんと考えなければならなかったんじゃないか?
一応トイレの窓を開けて、便器にはドメストで消毒、手拭きタオルは自分専用、という風にしたけれど、これで感染なんて防げないだろうと。
最近新型コロナの影響でそういう衛生意識というかが高まっているもんだと思ったけどどうやらまだまだ甘かった。
熱っぽかった夜、コロナの可能性あるか?と思って熱を測って、まあ平熱で、ホッとして眠ったら頭痛が取れてて、あこれ胃腸炎だって思ったとき、あー良かった、大丈夫だって思った。
正直胃腸炎ってこんなにつらいと思ってなかったです。おなかを壊すことは今までにも何回かあったから、その程度だろうと思ってたんだけど、本格的な胃腸炎は初めてで、なめてた。
結果的に妻にも娘にも感染してないようで良かったけど、じゃあどうするべきだったのかって考えると正直よく分からない。
ピーク時は自分で病院に行くのは難しかったし、かといって救急車を呼ぶほどの重症でもないし、仮に病院に行っても入院ってことにはならなかっただろうし。んー。
視線
とは言いつつ、先ほども書いたように、胃腸炎だって思ってからは一応感染を防ぐ気持ちみたいなのはあって、子供にはできるだけ近寄らないようにしたし(こういうときに限ってすごいベタベタしてきたけど///)、所詮できるだけだし、徹底はしてなかった。
トイレでおなかが絶頂に痛いときだけ、心の目が顕微鏡のようになって、ここにもあそこにも菌が付着しているかもしれない、浮遊しているかもしれないという気分になったものです。
というか人間ってすごいなと、こういう問題すべて忘れて今朝なんかは思いました。
意識の上では細菌レベルの小さい、目に見えないもののことを見ることができるし、反対に自分を細菌ほどの小ささに設定して、俯瞰した地球の図みたいなのも瞬時に想像できる。
肉体的な視力は限られているどころか鳥とかと比べると視力は弱いと言って良いと思うのだけど、観念の意味で言えばこれ以上ないってくらい高性能の視力を持っている。
ああ、だからこそ顕微鏡が作れるし、ハッブル宇宙望遠鏡なんてものも作れるんだなあと。こういうものが見られたらなあ、とか、こういうものが見たいなあ、と思ったからこそ、見る機械が作れた。
見る機械があったから見えるものが増えたんじゃなくて、存在を観念で見て、それを追うように道具を作った。
全てのものはそういう風にできてるんじゃないか?というのがこの記事の結論。おお、やっと見つけた。
こんどこのあたり、もう少し深く考えて書いてみよう。
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