時間とは物質の変化の相だ。物質の密度の高い所では時間は速く、遅い所では遅い。逆説すれば、時間の中にある限り、物質はすべて変化する。不変のものはこの宇宙に存在しない。 講談社 半村良『妖星伝』 鬼道の巻 133pより
時間とはなにかってあまり深く考えたことはなかったけど、この文章を読んで目から鱗でした。
そういえば、時間って当たり前に進むと思ってるし存在すると思ってるけど、僕らは時間を観測できない。
何言ってんだ時計を見たら時間が進んでいることが分かるだろう、と思うかもしれないけれど、それは時計を見ているのであって時間を見ているのではない。
時間というものを僕らは間接的にしか観測することができない。時計の針がこれだけ進んだから時間がこれだけ進んだのだ、日が昇り、日が沈んだから時間がこれだけ過ぎたのだと信じることしかできない。
モノにはそれぞれ固有の時間が流れている。
ああそうか、それならば時間を超えるものがあるじゃないか。
モノじゃないもので、だけど確かにあるもので、僕ら人間を人間たらしめる核のようなもの。
こころです。
「こころ」は時間を超える
僕らが当たり前に持つ「こころ」は時間を超える、とさきほど引用した文章を読んで思いました。
こころは物質じゃないから時間の制約を受けない。
例えば僕らは一夜で昨日まで好きだった人のことを嫌いにもなれば、嫌いだった人を好きにもなったりします。
反対に恐ろしく長い時間同じ志を持ち続けることだってある。
雪が解ける速度、木が成長する速度、もしくは人が胎内に宿って生まれるまでの速度、星が巡る速度のように、一定の幅を越えないモノはすべて時間に縛られているけれど、こころはそうじゃない。
僕らのこころは一定の速度で流れると思い込んでいる時間の概念を軽々と越えて、時間の制約から決して逃れることのできない「身体」を動かしている。
これがものすごく不思議なことのように思えたのです。
時間の制約を越えることができない身体の原動力が時間の制約を受けないこころだところが人間を人間たらしめているな
時間の制約を越えることができない身体の原動力が、時間の制約を受けないこころだっていうところが人間を人間たらしめているなと思うのです。
だって、人類は普通に考えたらできないことをいくつも成し遂げてきました。
この大地から飛び立って宇宙に行くとか、恐ろしい病の克服とか、走る速度や球を投げる速度がどんどん上がっていってるのもすごいことだと思います。
これって僕らがただ自分に与えられた身体と身体に付随する時間を消費するだけでは決して成し遂げられなかったことなんじゃないかと思うのです。
誰かが目指し、誰かが伝え、引き継ぎ、試し、乗り越え、それを繰り返すことで、人類は身の程を越える領域に足を踏み入れ、発達してきた。
僕らはこころを強く持つことで、他の生物には決してできない「自分の身体を越えること」ができる正物なのだと思います。
だから他の生物より優れているということにはならないかもしれませんが、強みの一つであることは間違いないから、改めて「こころ」を大事にしたいなと、そしてこころを運ぶ身体も大事にしないとなと思ったのでした。
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