人生100年時代に突入したというのに、日々の時間のなさ、ゆとりのなさは異常だと思いませんか。
人生100年時代を念頭においていろいろやらなきゃいけない、いろいろ備えなきゃならない、計画的に生きなければならないというのは理屈の上では分かるのですが、感覚的に腑に落ちない。
例えば3泊4日沖縄の旅と、1か月間沖縄の旅だったら、しっかり計画を立てて、効率よく動かないといけないのはどっちでしょう?
間違いなく3泊4日の方ですよね。時間がないのだから。
人生50年と人生100年だったら、単純に二倍怠けて良いはずだ。50年と100年って、ちょっと大げさだけど、言いたいことは分かってもらえると思う。人生が伸びたなら余暇が増えて良さそうなものなのに!
人生が長くなったのに、反比例するように余裕がなくなっていくってどうしてなんでしょう?
そんなの不思議でも何でもない!
いや不思議だ。
僕の中では二つの意見が対立しています。
みなさんはどう思いますか?
人生100年時代だからこそ僕らには余分な時間がない
先にタイトルに対する答えを書いておこうとおもいます。
僕らの人生は100年になって、ゆとりがあってもよさそうなのに、時間がないと感じるのはなぜか。
一つは、100年間エネルギーを使うことを考えると無駄遣いなんてしてられないから。
僕ら100年生きられるようになったのではなく、100年生きなければならなくなったのです。
100年間、僕らはエネルギーを使い続けなければならない。
エネルギーとは何か?お金と考えるのがもっとも簡単だと思いますが、もちろんそれだけではありません(後述)。
もう一つ。僕にとってはこっちが重要な答えです。
100年、という先を見せられたことが、僕らに時間がなくなる最大の原因。
これはかつてミヒャエル・エンデ作『モモ』に関する記事で書いたことでもあります。
『モモ』に登場する時間泥棒、灰色の男たちの常套手段はどんなものだったでしょうか?有名な作品なのでお話し自体は知っている方も多いと思いますが、彼らの手口を覚えていますか?
彼らは「先を見せること」で時間を奪いました。
この時間を節約すれば、1日何分、1年で何時間、10年で何日間もの時間になりますよ、って具合に。
そういう「売り方」をしている製品っていっぱいありますよね。時間やお金と言った本来形の無いものに限りを見せて、使わないことで目に見える形で貯めることができるかのように思わせるのです。
詳しくは『モモ』を読み返してもらうか、以下の記事を参考にしてほしいです。

先のことを強烈にイメージさせ、今に罪悪感を抱かせるというのは灰色の男たちの基本的な手口です。
今は「先を見せられて」います。それも悪意なく、それどころか心から善意で、100年生きるつもりで考えろ!とアドバイスする人が多いと思います。だから誰もが当然のことのように、遠い未来のことを考えるよう仕向けられている。
それがたとえ100年という長い期間でも、先を見せられるということは時間の喪失につながると僕は考えます。
さて、なぜ人生100年時代なのに時間がないと感じるのかって疑問の答えはこんなもんで良いと思います。
この先は長い余談なんだけど、僕らはどうすれば100年という途方もない時間を得て、これで良かったのだ!と心から思えるような人生が送れるでしょうか。
答えはもう『モモ』の中にも書いてあるし、現代人は分かっているはずです。
「今を生きる」こと。「自分の時間」を生きること。
先を見ることが時間消失の条件なのですから、今を見つめ、今を生きることが大切です。
100年生きようとする僕らがやろうとすること
「今を生きる」ってよく言うけど、本当に今のことだけ考えて、今にだけ集中してたら100年持たないんじゃないの?って考えるのが理性的な思考ですよね。
人生が伸びて、反対に余裕がなくなっていく理屈はとても簡単です。
人生100年時代、ということは、僕ら100年持続しなければならない、ということだからです。
言い換えれば、僕らは100年間、エネルギーを使い続けるということ。
そのエネルギーが豊富ならばまったく問題ないけれど、エネルギーの枯渇もしくは取り合い状態では「平均的にみな100年間生きなければならない!」というのはそれだけでサバイバル開始のゴングが鳴るってもんです。
僕らがこのサバイバルに関してできる施策は大きく二つほどあります。
一つは消費エネルギーを減らす。
もう一つは消費と生産のハイブリットシステムを構築する。
みんなやってること。そうじゃなかろうか。先のことを考えればこうなりますよね。
自分を顧みても、消費エネルギーを減らすために田舎で暮らしてるような気がします。
でも先のことを考えるのは時間を失うことに繋がる。先のことを考えながら、今を生きるってどうやるんだ?
没頭することだ。好きなことを探すのだ。未来のために今を生きるにはそれしかないのだ
「今を生きろ」と同じくらい高らかに叫ばれるスローガンに「好きなことで生きていく」がありますよね。
ただこの「好き」もそれほどマイルドなものでなく、寝食を忘れるほど好きなことに打ち込め、圧倒的にコミットしろ、みたいな感じで、ちょっと体育会系な風味が醸し出されていたりしますよね最近。
それでなんだか、意識高い人とか、いろいろと恵まれてる人が唱える呪文みたいになっちゃってるふしがあると思う。
僕らが好きなことで生きなければならないのはなぜか、僕らが没頭できるものを探さなきゃいけないのはなぜか。
それは圧倒的な勝利者になるため、という側面もあると思います。しかし個人的にはそういうこと言われると引いちゃうタイプで、やるなら勝つべきとか、一番になりたいみたいな気持ちって、無いとは言わないけど、素直にモチベーションを高められないところがあります。
「勝利」がピンと来ない人には「自由」という言葉が掲げられたりしますね。
自由、そうですね、自由の方がまだ魅力的。目指す意味があると思う。でも自由も不安とセットじゃ意味がない。未来のことを考えると僕らは自由な心でいられないという皮肉。自由すぎるとかえって今を生きるのは難しい。
じゃあどうすれば良いか。
僕ら没頭しなければ、心から集中できることがなければ、今を生きるのは難しいんです。
僕はこう言われた方が好きを仕事にしようと思える。好きを探そう、と思える。
未来のことを考えて考えて、何か価値を提供しよう、これを極めて有名ブロガーになろう、有名youtuberになろうって考えても難しいです。
成果が出なきゃやる気出ないし、無意味だと思ったら「今まさにめっちゃ時間を無駄にしてない?」っていう内なる灰色の男たちがわめきだす。これが不幸なのです。未来を不安に思う時間、未来を見せられるせいで今に満足できない時間が不幸なのです。
それを100年続けるのか?って話です。諦めるまで不安に苛まれて、諦めてからは後悔して、100年という長い時間を生きるのか?
だから僕らは未来への不安とか、時間の無駄とか、そういうのをまるっと無視できるほどの没頭を経験する必要があって、集中力を注ぐ必要がある。
今を生きるにはそうするしかない。だから好きなことを探し、没頭を大事にした方が良い。
それに発信や記録を組み合わせることで奇しくも未来の資産になったりする可能性がある。未来のことは分からない。だけど集中や没頭の状態。今を生きる状態っていうのはかなり幸せなものだと思うのです。
それを探すのってあまり難しいことじゃないと僕は思う。このことについては別の記事に書きます。
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