「自由になりたい」んじゃなくて「不自由を選びたい」んだよな

発想と行動を記録する

「自由になりたい」とか「自由を手に入れる」というのが願望でもスローガンでもなくただただ言葉の綾で、僕ら実際には「不自由をこそ得たい」と思っているし、「不自由になりたい」と思っている。

地面に跪いて、「この命を捧げます」って心から言えるものに出会いたいといつも思ってる。

命と言うと少し暑苦しかったり大げさだったりするなら何と言い換えても良いと思います。時間、お金、体力、才能。自分の生命が差し出せるものを僕らは欲している。

とにかく自分が持てるものを捧げて、「自分」っていう、自分ひとりじゃ持て余してしまう厄介な自我を何かに譲り渡したいと思ってる。

自分に手枷足枷を付けるものを探してるなんて卑屈だし字面が悪くて羨望の対象にならないから世の自由な人は自由を標ぼうするけれど、人が心の底で求めているのは不自由なんだって僕は考えてます。

ただ、僕らは命を捧げるものは自分で選びたいんだろう。

その一点に限り、僕らは自由を求めてる

つまり、僕らは不自由を自分で選びたい

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自由を求めているフリをしてるんじゃないか

これは僕の意見ですが、みなさんはどう思うでしょうか?

本当にどこまでも純粋な自由を求めている人もいるかもしれませんが、多くは自分の人生をがんじがらめにする不自由を、自分の思考や動きを制限する不自由をこそ求めているのではないでしょうか。

有体に言えば縛られたいと思っていて、だけど素材は自分で選びたい、どこを縛るのかも自分で決めたいと思ってる。

僕はそうです。

田舎に帰ってきて家族のそばで暮らすと決めたことも、猫を飼うと決めたことも、結婚すると決めたことも、子どもを作ると決めたときも、幸せを求めてした行動だけど、選んだのはすべて「不自由を言い換えたもの」でした。

僕が選んだのは不自由で、自由を求めたことなんかないことに長い時間をかけて気付きました。

だけど「不自由」という言葉の圧倒的なネガティブさが鼻持ちならなくて、僕らは自由を求めているフリをしなければならない場面が多くあるんじゃないかと思います。

本当は不自由さこそが得たくて得たものなのに、それは幸せのネガティブな面として捉えてしまうのです。

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どんな不自由になら命を燃やせるだろうか

やりたいことをやるとか、好きを仕事にするとか、そういうのって僕ら、自由を求めているかのように見せかけて、本当はごりごり不自由を目指す行為だったりすると思います。

そうじゃないでしょうか。掛け値なしの自由を手に入れたことがある人なら分かるはずです。自由とは誰にも必要とされないということで、どこにいても良いということは、誰にも引き留められないということです。

自由を求めるということは、多くの場合、誰にも求められないということにとても近い現象を目の当たりにする覚悟がいります。

僕らが近寄りたくないのは不本意な不自由であって、不自由そのものではありません。

望むのは自由ではなく、自ら選んだ不自由です。

どうせ僕らは不自由に生きるし、不自由を求めます。だけど、大事なことだからもう一度言うけれど、みんな不自由を選ぶ主導権は自分で持っていたいだろうし、誰にも明け渡すべきではないと思います。

「私はどんな不自由になら命を燃やせるだろうか」とじっくり考えるのは、すごく真剣な生きる態度ではないでしょうか。

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