純文学と大衆文学の違いをはっきりさせる必要はないと思う。
だけど、小説を書く人にとっては重要なことでしょう。
いや本当にそうだろうか。
純文とかエンタメとかそんな枠組みを知れば知るほど書けるものの可能性は狭まってしまうかもしれない。
ジャンルを越えるものはいつの時代もどんな領域でも必要で、人々の精神の奥底で待ちわびられているとして。
じゃあジャンルを超えるためには、その、超えるべきジャンルを知悉している必要があるのか、それとも、知らないが故に越えられるものがあるのだろうか。
分からない、意識的に超えることに価値があるのか、既成の概念に当てはまらないものは自然発生してこそ価値を帯びるのか。
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大衆文学書けないから純文学に逃げるってのは正直ある
純文学と大衆文学とを比べると、純文学の方が崇高ですごいというイメージがあるような気がします。敷居が高いというか。「文学!」という感じ。
対して大衆文学は「エンタメ性」を求めるイメージなので、どちらかというと現代社会の興味に迎合する感じ、商業的、マーケティングありきって感じで文学としては低く見られがちなんじゃないか。
この高い低いってのは、好きな小説を聞かれたとき、最近映画化もした○○っていう作品を挙げるより、明治時代の文豪の代表作を挙げた方が「文学が分かってる感じ」がするという程度のこと。敷居の話かもしれない。
しかし、僕個人の感覚でだけど、エンタメ性の高い大衆小説を書く方が圧倒的に難しい。
読者を驚かせよう、惹きこもう、笑わせよう、ハラハラさせよう、キャラクターを好きになってもらおう、って考えて実行できるって相当な才能と勉強が必要になんじゃないか。
驚かせようったって刺激の強い現代において人をハッとさせるような発想はそうそう出てこないし、笑わせる文章を書くのも泣かせる文章を書くのも至難の業。
何を目指しても平均値のよくある話になってしまうのがオチで、自分の引き出しの無さ、思い切りの無さ、サービス精神の乏しさ、覚悟の無さが浮き彫りになるばかり。
だったら、「純文学っぽい」ものを書く方が楽です。
芸術性の高い、美しい文章を目指すと言われる純文学の世界ですが、芸術性とか美しさなんて曖昧なもの、得点を付けられるわけでもなし、正解がないがゆえに間違いもないみたいな世界じゃないか。
「分かんないけど芸術なんでしょ?」「芸術はやっぱり分からんね」「でもすごいねなんか」ってリアクションでも良いみたいなところがあるんじゃなかろうか。
理想は人間の深い深いところを丁寧に描くみたいな、淡々としていて、それでも胸に残るような、美しく研ぎ澄まされた切っ先みたいなもんが表現できてこそなんだろうなあと思うけれど、現実は「分かった気にさせる」くらいの文章を目指すのが僕の現状。
実際は何も深くない思考で、書ききる力がないので仄めかしに走り、ごまかしごまかし、単純に面白くないものを小説風にしているだけという感じ。
これは文章にするとちょっとこれ落ち込む。
世間的に明確な純文学と大衆文学の違い
芥川賞と直木賞
芥川賞を受賞するような作品は純文学で、直木賞を受賞するような作品は大衆小説というイメージを持ってる人は多いと思う。
僕もざっくりその程度のイメージを持っている。
好き嫌いとかそれまでに読んだ作品とかがそれぞれの頭の中にある以上、芥川賞受賞作が必ずしも芸術性に富んでいるように見えて、かつ人間の深層心理を鋭くえぐるような作品と感じるかどうかは別の話です。
同じく、直木賞受賞作だからと言って小説を読んで心躍る体験が約束されているとも限らない。
エンタメと呼んで良い芥川賞受賞作もあろうし、抑揚が抑え目な直木賞受賞作もあるだろう。結局曖昧です。
レーベルによる
単純にどの出版社から出版される作品なのか、どの文学賞の出身なのかで純文学なのか大衆文学なのかに大別されるってのはあります。
この手の話で、ライトノベルと一般小説の違いなんかも話題になることがあるけど、僕が納得するのは、単純にこの出版社から出版されるのはライトノベルって分け方。
そういえば前にライトノベルと一般小説って何が違うんだろう?って記事書いたな。
改めて、純文学と大衆文学の違いを知る必要はあるか
単純にレーベルで分けられるとか、出身の文学賞によって大別されるってのは分かりやすいけど面白くないですよね。
読むだけならそれで良いかもしれないけれど、書くときはどうだろう。
自分は純文学を志してるからあの文学賞に応募しようとか、エンタメで行きたいからあそこに応募しようとか思うことがあるかもしれない。
でも具体的に、何をどう書けば純文学で、どうかけばエンタメなのかが分からない状況ではゴールを定めようもない。
それに純文学とか大衆文学ってのは主に日本国内で取り沙汰される問題なわけで、海外のあの人みたいな作品が書きたいと憧れて育った誰かにとっては、心からどうでも良い区別だったりする。にも関わらずどちらかを選ばなきゃいけないような変な感じ。
それに純文学を目指すならうっかり面白い展開にしちゃいけないみたいな気にもなりはしないか。それはないか。でもやっぱりどちらかを志向するあまり極端にどちらかっぽくなってしまうという弊害はあると思う。
極端にどちらかっぽくなってしまうっていうのは、突き抜けたエンタメ性や芸術性があるという意味ではなく、極端になぞってしまうということ。
精度の高いよくある話を書いてしまうんじゃないか。僕はそれが怖い。
読み心地の違い純文学と大衆文学を分ける
読み心地の違いで純文学と大衆文学を分けることもできると思います。
大衆小説(エンタメ小説)はジェットコースターなんだろう。
しっかりスリルがあって、どんな経験ができるか分かってる。爽快で、多くの人をまとめて幸せにできる。
ジェットコースターじゃなくても良いです。観覧者でもなんでも。
とにかくお客さんからお金をとって、期待通りの面白さを提供するアトラクションがエンタメ小説なんだろう。
純文学はお母さんのソリ
じゃあ純文学はと考えると、お母さんのソリとかかもしれない。
僕この記事書きながら、自分の親じゃなくて、友達のお母さんに、ほんの短い距離をソリを引いてもらったことを思い出しました。
快適でもないし特にスリリングというわけでもないのだけど妙に覚えてる感覚。
ソリがアトラクションになることなんてないし、誰もが楽しいわけじゃないけど、お尻に伝わる振動とか、微妙に横揺れする感じとか、ソリが雪を押しつぶしていく音とか、そういうのを覚えてる。
純文学と呼ばれる作品で味わうのは、そういう感覚なのではないか。
売り物にはならないし激しい記憶でもないし人に語るほどのことでもないけど、実感として生々しく残っていて、何となく大切にしているものが誰にでもある。
そういう激しくもない売り物にもならない普遍性を再現し呼び起こそうとしたとき、文章は自ずと繊細になって、純文学と呼ばれるような代物になるんじゃないか。
って本当は最後のこれだけ書きたくてこの記事を書くことにしたんでした。
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