人類には様々な問題が立ちはだかっているけれど、介護問題も近く訪れる大問題の一つだろう、みたいな話を前回、前々回としています。
専門的な立場から、というわけではなく、「超過疎地域」と「80代の祖母」という二つの衰退、日本の目立たない、辺境と言っても良い土地と僕ん家にひしひしと忍び寄る退廃の空気に感化され、俄に焦りが生じて介護という問題に興味を持ち始めたという次第です。
介護の話題を好きなだけしたら、次は地域の話をしていくと思う。
だから色々介護関係のツイートを見るともなく見ているんだけど、とりあえず知らないことがいっぱい。
今日は「介護拒否」って言葉をはじめて知ったという話。
家族も本人も介護の中にいることに気付いていない
介護拒否の意味は明瞭。説明はいらないと思う。
驚いたのが、僕の祖母がしているのが「介護拒否」だった、って気付いたこと。
祖母は認知症が始まっているけれど、基本的な生活は自分でできて、身体は至って健康。
しかし色々見ていないと危なっかしいところ、ちゃんと成り立たないところがいくつかあるという状態で、まあ認知症は認知症だけど「介護」ってレベルではないだろって思ってた。
だから例えば、母が買ってきた「お薬カレンダー」を祖母が「使わない」と言ったこと。
これは「合理的にモノが考えられなくなったのだ」「年寄り扱いされるのが嫌で、自分なりの老いへの抵抗なのだ」と理解していたんだけど、違ったのかもしれない。
これはもう専門の方から見れば「介護拒否」という領域の出来事なのだと気付いた。
もちろん「合理的にモノが考えられなく」もなったのだろうし、「年寄り扱いが嫌」というのはあるに違いない。だけどこれは「介護が必要な人が陥る普遍的な反応」なのだとしたら、それ自体がどうしようもなく「介護のはじまり」の合図になっている。
僕が何となく祖母の生活や動作を見ていること、これはもう十分「介護」なのだ。自分がしているのはもう介護なのだ、と思って、なんか急に重みが出た。
ちなみに界隈では母をはじめ、僕や妻が祖母に対してやっているのは「見守り」というものらしい。介護用語を知り、介護の中にいることを知った。
僕の介護拒否
これは僕にとって面白い話で、僕は祖母を「介護」しているつもりはなかったんだけど、「介護拒否」という言葉に心当たりがあることに気付いて「介護」の中にいると知った、っていうのは、言葉によって世界が規定されていることを強く感じる出来事だった。
思えば僕はずっと文だの物語だのと親しんでおり、あらゆることを他人事のように扱っていきていたんだけど、介護とか、育児とか、結婚とか、良い歳になればそれなりに当事者にならなきゃならないことが増えて、それがしんどいことが興味深い。
「介護」が始まっていると気づいた瞬間、今まで自然にやっていたあれやこれに「義務感」が生じて、面倒くさくなった。
面倒くさいというのはなんかちょっと違うかもしれないけど、まあ間違いなく面倒くさいという感情もあるのだから面倒くさいで良いか。
なにより「介護」という言葉で括られた世界の中にいることが嫌なんだろう。
何より面倒くさいのは僕の性格であり、僕の「介護拒否」なのだ、っていうオチ。
とは言えもう生活の一部だから本当に拒否も、ましてや放置も、するつもりはないのだけど。
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