介護と精神的苦痛

joyful adult daughter greeting happy surprised senior mother in garden発想と行動を記録する
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あるツイートで、要介護認定が3とか4とか、もうめっちゃ介護が必要なレベルの人の方がある意味楽というようなことを言っている人がいた。

本人の意志で身体が動かせなかったり、意志表示ができなかったりすれば、言い方は悪いけど「作業」としてこなせるんだろう。

大変なことは間違いないけど、もっと軽度であれば「介護拒否」などがあって厄介だ、というような話。

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無下になる親切



なるほど祖母がお薬カレンダーを受け入れなかったときも大変困った、というか僕はかなり怒ってしまった。介護拒否の始まりの始まり程度の出来事なんだろうが嫌な思い出。

お薬カレンダーを拒否した数日後、完全に無視するどころか、まったく別の部屋に移動させてあった。母が必要だと思って用意したものだったので、その親切を無下にするようなことをするのに非常に腹が立った。

実際のところ、カレンダーを動かしたのは母で、使わないと言ったから普段使わない部屋に移動しておいたらしい。僕はそれを知らずに怒ってしまったらしい。

突発的に怒りに駆られてしまったのは申し訳ないが、それにしても無下にされることがあまりにも多い。

こないだ、本人は冗談のつもりなのかもしれないけれど、「今はこんなになっちゃったけど、あんたは頼んだことはよくやってくれる子だった」と言ったことに苛立った。今は何もしていないと言わんばかりの言いぐさだった。「でも畑をやってくれるのは助かるよ」とフォローにもならないようなことを言った。

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不愉快や苛立ちを共有できない場合の精神的苦痛たるや

介護って深刻だなと思い始めたのは、だんだん目を光らせておかなければならないことが増えたというのもあるけれど、うんざりして腹立たしいことが増えて、不愉快の閾値が低くなっていることに気付き自己嫌悪に陥るなど、精神面の大変さが多い。

我が家には三歳児がいるが、日に日にできることが増えていく我が子と、日に日にできないことが増えていく祖母を対比すると、どうしても同じ強度の忍耐ができない。

かわいいかわいい我が子に対してさえ、聞き分けの無さや無駄に増える作業に苛立ちを覚えることが毎日なのに、もう新しく学習することのない、やったことを覚えていない故に無に帰す作業の数々にうんざりが隠せない。

何度同じことを言っても聞かないのは子も祖母も一緒だが、一方はそのうち理解してくれるだろうが一方はもう一生理解してくれない。

気を配らなければならない量の負担よりも精神的な負担の方が大きい。

これをもし一人で抱えるとなると相当辛いと思う。

なぜなら辛さを知ってくれる人がおらず、本人にさえやったことのほとんどは感謝されずに終わるのだから。

介護はチームで行うものなんだろう


もし今僕と妻がいなければ、母が全てのサポートをすることになっていたわけで、祖母のためにやったことは、本人にはもちろん、誰にも何一つ認められず、どころか世話を焼こうとすればするほどお節介扱いされ、先回りして対策を取ると勝手なことをしていると思われる。

言葉にすればするほど祖母が悪者になっていくようだけど、そんな意図はなく、単純に現実の認識に大きな隔たりがあって、捉え方に差があるので生じる色々が、けっこう深刻だ、という話。そもそも祖母はとても優しいし(幸い今も優しいまま)、比較的合理的な人だった(これは幼い頃の勘違いだったかもしれない)と思う。

分かっていてもこの隔たりは辛く、子育てと同じように介護というものはただでさえ、数人でのサポートが必要な分野なのだと思う。

そういう意味でも介護は「専門家のチーム」で行うべきことなんだろうが、今よりもっと状況が深刻になるであろう10年後、20年後、どうなるのか、というのが僕の最近の大きな懸念。

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