・『他人の顔』 ・『顔を読むー顔学への招待ー』 ・『ドリアングレイの肖像』
以上の3点を基本的な課題図書に据え、「顔」をテーマにエッセイや読書感想文など、とにかく色々、読書を通して頭によぎったものを文章化していきます。
本同士の繋がり、本と自分の経験との繋がりなど、読む醍醐味を可視化して共有できたらなと思っています。
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魅力威光ー威光効果
阿部公房『他人の顔』エッセイー僕らの外見の問題はどこまで内面の問題なのかー
において、見た目が良いと中身も良いと思ってしまう、可愛い女の子は純真で明るくて心優しいに違いないと僕らは考えてしまう、というようなことを少し書きましたが、『顔を読むー顔学への招待ー』では、「魅力威光」という言葉で説明されています。
ハロー効果とかって言葉と同じなのだろうか。これを威光効果と呼んだりしますよね。
重要なところを、少し長いですが、引用させてもらおうと思います。
魅力的な顔が好ましい影響を与えることは、あらゆる年代の人にいえる。生後三か月から九か月の魅力的なあかんぼうを見た人は、その子が健康で、穏やかで、母親への愛着が強く、機嫌がよく、反応が早く、人に好かれ、賢く、問題を起こすことも少ないという印象をもつ。教師は、魅力的な小学生は人気があり、性格がよく、利発で、将来学位を取得する可能性がより高いと考える。高齢者でさえ、魅力的であることは人にいい印象を与える。六〇歳から九五歳の年代の魅力的な人は、同じ世代の魅力的でない人よりも社会的に望ましい個性をもつと受けとられる。魅力的な高齢者はまた、りっぱな親であり、理解ある配偶者であり、おもしろい多彩な人生を送るといった好ましい人生経験を積んできたと判断される。さらに、医師などのステータスの高い職業に就いていたに違いないと想像される。これらの威光効果は若い大人の判断ばかりでなく、評価を受ける高齢者と同世代の人びとの間にも見られる。『顔を読む 顔学への招待』215p
こういうことです。
容姿が良いというだけで、人は勝手に高評価をする。魅力的な顔を持っている人は、多くの方面から魅力的な要素を備えているように見られる。
魅力威光があるばっかりに崩れる評価
もちろん実際の人間関係において、事態はそれほど単純なことではないように思います。
例えば「美人には性格の悪い人が多い」というようなまったく逆の偏見、やっかみとも取れる発言を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
もしくは自分の胸に聞いてみたとき、「美しい人」に対して一種の警戒心を持っているという方はいないでしょうか。騙される、笑われる、見下されると言った恐怖心がまったくないとは言えないでしょう。これを総合して「美人は性格が悪い」と言う人もいるかもしれません。
これは卑屈な考えで、被害妄想に近く、たいていの美しい人は「普通」であると僕は思います。
普通に人をバカにしたりすることもあるだろうし、意地悪をすることもあるだろうし、損得勘定が働いて一方では良い顔をして一方には冷たくするということもあると思う。普通に何となく機嫌が悪いこともあれば、普通につい悪態をついてしまうこともあるはず。
この程度僕ら誰でも「普通」にあるのに、美人にこれをされると大ダメージを食らうわけです。うっわ最悪だ!ってなるわけです。
それはなぜかって言うと、やっぱり基本の評価が高いからに他なりません。無意識のうちに、可愛いあの子は純真で素直で優しく暖かい人だと感じているから、そうではない面を見たときに騙されたとか裏の顔が怖いとか言われる。もしくはちょっと言葉遣いが拙かっただけで実際以上に頭が悪く見られたりする。
威光効果はもろ刃の剣であると思います。
ブログの顔出しは効果的か否か
これについて、僕がほんのり思いだすのは、ブログを書き始めた当初、顔を出そうかどうか迷っていたときのことです。
ブログを書き始める前、ブログの書き方に関する本やWEB上の記事をよく読んだのですが、「顔出し」が基本というようなことが書いてあった記憶があります。
どんな人が書いているのかが分かった方が信用されやすく、親しまれやすいというようなことが書いてあったような(僕は普通に恥ずかしいので顔出しはしない方針でしたが、今はどっちでも良い気持ちです)。
そう言えば、僕は本を読むとき出来るだけ作者の顔は確認するようにしています。やっぱり作者がどんな人なのかは分かっていた方がすんなり読める気がするし、ときには顔で判断して読まないこともあります。
まじか……と思う方もいるかもしれないけれど、これけっこう重要だと思います。良し悪しというよりは相性の問題というか、そういうのは絶対にある。
さてここに至って、やはり容姿は整っていた方が有利という感じがしますよね。特に文章を晒すような人の場合、容姿は大切なことだと僕は思う。
ただし、美しいに越したことないという訳ではないと思います。容姿と文章の関係においては独特の指標があるんじゃないか、というのが僕の今考えた持論です。
普通がベスト。ただし、その普通はかなり洗練されている。
「普通」がベストのように思えます。もっと正確に言えば、水準が高い「普通」。人と並んで遜色はなく、普通に身だしなみが小奇麗で、表情は明るく、話しが通じそうな容姿。つまり普通。垢抜けた大人の容姿。
これは完全に憶測なんだけど、たいていの人は自分をこの程度の「普通」だと思っているのではないかと思います。
でもこれ、実際には意外にハードルが高い要求だと思います。人に普通の人と思わせながら、かつ好感を与える、もしくは嫌悪感を抱かせない容姿というのは、実はかなり洗練された人であり、強い魅力を持っています。僕は自分にそんな自信はない。
でも、それこそ自分を「普通」と評する人は、こういう意味で自分のことを「洗練された普通」だと思っているのではないか。
ややこしく書いちゃったけど、僕らいつもちょっとだけ、想像の中の自分は美しくなっている傾向にあるんじゃないかって思うんです。あとで見返して気に入らない写真が多いのは何故だ、動画に入っている自分の声が汚く感じるのは何故だ。
想像上の人から見られている自分は、実際の自分よりも少し魅力的になっている(これ何かの本に書いてあった気がするけど思いだせない)。
単純に美しいというよりは「モテる人」であることが要求されている。イメージとしては、クラスの人気者とまではいかないまでも、目立つわけではないがいつも中心に位置するような人。
たいていの人は顔出しした方が有利
美し過ぎる人の文章は逆にうさん臭く感じるかもしれません。
先ほども書いたことですが、美しさというのは一種のハードルでもあります。期待値が勝手に上がるのです。
少し矛盾したことを書くと嘘つきと言われる可能性があるし、良いことを書けば必要以上にあざとく見えるかもしれません。
もちろん美しければファンがつきやすく、勝手に良い解釈をしてくれる可能性もありますが、思考が垂れ流しになる文章において、粗を見せず、顔と同様非の打ちどころのないことを書き続けるのは至難です。
文章を武器に活動しようとする場合、美し過ぎる容姿を見せるのはデメリットの方が多いのではないかと個人的には思います。
その点、反感がもたれるような容姿ではなく、過度に期待されるような美しさでもなく、(洗練している故に)普通に見える容姿というのは、文章をフラットに見せてくれるのではないか。
また、文章に自信があるのなら、魅力的とは言えないくらいの方が、その人の文章に触れる際の心理的ハードルが低くなり、やはり親しみも覚えてもらえる確率が高く、有利なのではないか。
世の中の大半の人は、普通か、普通以下の容姿のはずです。つまりたいていの人は顔出しをすることで生じるデメリットよりメリットの方が大きいと予想できます。
文章を書く上ではたいていの人は顔出しをした方が得、という結論になりました。
『顔を読む』エッセイー魅力威光とブログの顔出し効果ー(完)
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