川端康成『雪国』の冒頭は非常に有名ですよね。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
二文目は「夜の底が白くなった。」
「夜の底」という表現が独特であります。
なぜかと言うと、「夜」には普通「底」がないからです。
「底」という言葉が持つ物質的な響きが夜と呼応して、閉ざされた空間、いやこれでは少し安易だな、異世界……はちょっと言い過ぎだな、分断された地点、これくらいが妥当かもしれない。こういう雰囲気を作っている。
夜の底が白くなったと言われてしかし、あまり違和感がないのも注目点。ただの詩的な、もしくは文学的な表現として難なくスルーされる程度には違和感がない。「朝の底」と言われるとなんだかおかしい気がするのに、夜の底と言われるとあまり違和感がないのは、そもそも「夜」に、そういう何かがあるんだろう。
類似表現に町屋良平『青が破れる』で用いられていた「夜のした」という表現があります。
どちらかというとこの「夜のした」という表現の方が僕にとっては衝撃的であり、言うなればこの「夜のした」という表現を見て『雪国』の「夜の底」という表現を思い出したくらいにして、つまりここでは、「夜のした」という表現の効果を探るために、文豪川端の「夜の底」という表現を引き合いに出して考えたいというのが大きな目標となります。
「夜の底」「底」が表す容器感
繰り返しになるけれど、「夜」に「底」という言葉が組み合わさるのは変です。
底ってどんなときに使うだろう?
底と言いたくなるのは、たとえばバケツの底とかコップの底とか、もしくはプールの底、海の底など、なんとなく液体を溜めることができる容器に使うケースが多いような気がします。
「腹の底」とか「心の底」とかの場合もありますけど使い方は限定的で、いずれにしても「溜まるもの」が連想されます
「谷底」とか「人生のどん底」とか「底辺youtuber」とか、単純に位置的に低い所、階層の低さを指すこともありますが、「夜の底」という表現にそんな意図があるでしょうか。
「夜の底にわだかまり」とか「夜の底に落ち込んで」とか言えばそういう意図も考えられますが、「白くなった(雪で)」があるので、やはり印象としては「(雪が)溜まるような夜」という印象の方が強いです。
よって、「夜の底が白くなった」から僕が受け取る印象は、心情的な夜というよりは「容器としての夜」です。
境界線と鏡面のイメージ
この「容器」という言葉についてもっと言えば、「四辺を何らかの境界で遮られている」という印象を持つこともできます。
「国境の長いトンネル」というのは、何らかの境界で覆われているその地域へのほとんど唯一の入り口なんじゃないか。それは物語の入り口でもあり、つまり、「堺を越える」というテーマが冒頭から記されてるんじゃないか。
※雪国はしかし、長い間書き足されたりなんだりして僕らが読む雪国になっているらしいので、作者の意図は不明です。
また、冒頭は文章だけでなく内容も印象的で、汽車に乗っている島村が、車窓ごしに向かいの席に座る葉子を眺め、その奥に流れる夕景色を不思議な気持ちで重ね合わせている。
川端は島村を「(後に出てくる)駒子の鏡」みたいな存在なんじゃない?って言ってるようですが、容器(境界線)の印象、そして鏡面の印象が最初にふんだんに詰め込まれている。
一連の物語を容器(ミニチュアの町みたいな?)を俯瞰する目と、汽車に乗ってその中に入りこんだ「水槽の中の生き物」的な目が溶け合って進んでいく。これが『雪国』の冒頭だと思う。
そうしてみていくと、「境界線」に関する表現が『雪国』には非常に多いように感じられるんだけども、そういうところをつぶさに見て行くとなんだか一定の論にたどり着きそうな気がする。
そもそも、雪国は研究している人が多い。雪国には一家言あるぞ、という人が多い印象。文学作品はえてしてそうなのかもしれないけれど、雪国、もしくは川端作品は曖昧な表現も多く多面的で、見る人が変われば語る切り口も変わるみたいな案配で、雪国そのものを読むより、いろんな人の雪国評を見る方が面白いみたいなところがある。
というようなところで、ここでは早々に『雪国』から離れて、町屋良平『青が破れる』の「夜のした」という表現について話を進めていきたい。
町屋良平『青が破れる』の「夜のした」という表現について
「夜の底」と同じように「夜のした」という表現について考えてみると、やはり違和感はある。こっちの方が違和感は強い。
しかも「夜のしたに繰り出した」というような表現ではなく、「なんちゃらー。」って文章があって「夜のした。」と脚本の場面転換のようにそっと書かれるのが『青が破れる』におけるこの表現の目立ったところだと思います。
場面転換とは自分で書いておいて言い得て妙で、やっぱり「した」がつくことで舞台感というか、物質感があるんですよね。
「夜のなか」「夜のはざま」とか言えば「時間的な夜」が表現できると思うけれど、「夜のした」というと、まるで「夜」という薄い膜があって、そのしたに潜り込んでいる印象がある。拵えられた夜というか、設置された夜。やはり物質感。舞台装置感。
「テーブルのした」とか「軒のした」みたいに、比較的近くに自分を覆う何かがあるときに「した」を使うと思うけど、それを「夜」に転用している。
「青空の下とり行われる」、「白日の下にさらされる」という表現もあるけど、それは「した」じゃなくて「もと」と読むのが普通だと思うし、だからこそわざわざ「夜のした」という風にひらがなを使ってるのかなとも思う。
もうすぐ破れそうな薄く儚い夜のしたにまだかまっていたい
仮に、作者(他の作品でも「夜のした」ってよく使うんですよね)もしくは『青が破れる』の主人公に「夜」が一種の膜のような、舞台装置のような物質的な印象を持っていたとする。
というかタイトルの『青が破れる』についてる「破れる」という言葉のせいで、それが薄い膜、今にも破れそうな膜のようなものだという刷り込みが僕たち読者に行われている感がある。
破れるのが夜だということは、『青が破れる』の「青」はまさに「夜」のことを指しているということが分かる。というか確信はないけど検討がつく。
ではなぜ青なのかというと、きっと都会の夜ってのは「青い」んだろうなと田舎暮らしの僕なんかは思うわけです。田舎暮らしと言えば僕もずっと田舎にいるわけじゃないので都会の夜のことも少しは知っていて、その経験と照らし合わせてみても、都会の夜ってのは儚いくらいに薄く、青い。
あと『青が破れる』の「破れる」って近未来を表す表現として使ってるんだと思うんですよ。「いつも」という意味ではなく。日本語では現在形と未来形を区別しないけれども、この破れるは「もう少しで破れそう」って言ってるんじゃないか。
だから「夜がもう少しで破れる」ってことは、「もうすぐ夜が明ける」ってことだと思うんだけど、「夜が明ける」というと希望を表す慣用的な表現になってしまう。ここでは「ああ、夜が破れてしまう」「この夜が過ぎ去ってしまう……」というもったいぶった感情があって、できればいつまでも夜のしたにわだかまっていたい感じ、ときが進むのが恐ろしい感じが強いのではないか(この感覚もなんかわかりますよね)。
そんで作品の最後の方では「まだ眠くない」って主人公が言うんですよね。なんかここで「夜のした」から抜け出したら破れてしまいそうな心情みたいなものが表現されてる気がして、タイトルと細かな表現が呼応しあってる感じがして、非常に感動した。
どうだろう。川端の「夜の底」、町田良平の「夜のした」いずれも夜だからこそ成り立つみたいなところがあるっていうのも面白い。
夜には何かある、と思いました。
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