【カズオイシグロ】『クララとお日さま』賢い語り手の不親切な語り

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2021年11月10日

カズオイシグロ著『クララとお日さま』(早川書房)を読み始めた。

まだ三分の一程度(現在144pまで)しか読んでいないので記事を書き始めるのは早いのかもしれないけれど、今の段階で思ったことを書いておこうと思います。

ブログのスタイルとして、先行き不確定なメモを残しておくのも面白いかなと思って。

ネタバレあります。

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クララはAF。人工フレンド

クララはAF。人工フレンドであり、高度なアンドロイドのような感じだと思います。

AFを販売している店舗の店長の言によれば、クララは「周囲に見るものを吸収し、取り込んでいく能力は、飛び抜けています。結果として、当店のどのAFより――これはB3型も含めてです――どのAFより精緻な理解力をもつまでになりました」だそうです。

好奇心が強いAFで、観察能力が高く、分析し、推測し、適切な行動、発言を導きだす能力の高い、読んでいてとても好感と信頼の持てる女の子がクララです。作中人物の中で極めて「まとも」な人にすら見えるのは皮肉ですが、あらゆる事象から学習し購入者であるジャジーに献身する様はとても健気です。

このクララが語り手となって物語は進むのですが、ところどころ説明不足な点が散見されます。

この点について色々考えると答えが出ないのですが、この疑問を持って、この先読み進めていこうと思います。

そもそもAFの仕組みや社会的な役割について説明不足なように思います。いやもっとそもそもなことを言えば、地域や社会情勢について、我々読者はあまり詳しい説明を受けず、察することしかできません。

ただしこれは悪い意味ではありませんし、察する材料はふんだんにあるので、意味が分からなくてストレスということではありません。

「向上処理」という分からない言葉や、クララが風景や人間の所在を処理するときに言う複数のボックスに分割されるとか、複数のパネルに分割されるというような言い回しが、少し分かりにくいけれど、これらについての説明も(今のところ)ありません。

クララがジャジーとの思い出を語る構成になっていますが、そもそもなぜAFが過去を振り返り、友人との思い出を語るのかという野暮な疑問は置いておくとしても、何らかの理由があって語る必要に駆られている以上、アンドロイドらしく、少々野暮なくらいに一般的ではない語句の説明などをしてもよいのではないかと思わなくもない。

書いてて自分でおかしいことは分かっています。

クララの語りは過不足なく、不足に感じるところがあれば読解力が不足しているか、小説を読むための忍耐力というか保留力のようなものが足りないような気がします。

しかしそれらの能力を読者に求めるのは作者カズオイシグロの呼吸であって、クララの呼吸としてはなんだかアンドロイド離れしているように思う。

アンドロイド離れしているということはつまり人間味が強すぎるという意味なのか?

そもそも僕らが思い描いているいわゆるSFのアンドロイドらしさというものを慎重に避けた造形・設定がされていると思うけれど、それでも観察と学習と経験によって得た人間性のようなものを駆使した状態で書かれた語りだからこその説明不足なのかな。

つまり高度な判断により多くの説明は不要という点を理解して話を進めているのだろうか。

それとも、クララが把握していることを読み手が全て了解しているわけではないという当たり前のことをうっかり配慮し忘れている学習不足、経験不足がこの不親切な語りを生み出しているのかな。

こんな感じの問いを持ちながら、続きを読んでいこうと思いますよ。

この記事は更新されます。

 

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11月11日 追記  入れ替わりと信用できない語り手

ジョジーを置いて、母親とクララの二人で滝を見にいくシーンは不穏で不穏でたまらなかった。

特にクララの観察能力を駆使して、ジョジーならどんな風に振舞うか、どんな言動をするかを見せてくれという母親の態度には嫌な予感しかしない。

当然、誰もが「入れ替わり」をここで察すると思う。

しかし僕がこの時点で考えたのは、この語り手がクララではない可能性だった。

論理だてて説明できるわけではないけれど、そもそもこの語り手がクララである保証がないと思った。

いやそもそも、ジョジーが、クララというAFを得たという想定をした上で、自らの死を客観的に描写するために作り出したのが「クララという語り手」なのではないか。

そう考えれば優秀な観察能力と、人を配慮する能力があるクララにとって不自然な不親切さも説明できると思った。

思ったけれど捻りすぎているし、無理があるな。

ちょっと切り替えよう。

ジョジーの不在、もしくは死は最初から仄めかされている。

クララがこの話を物語らなければならなかった理由は、ジョジーとの思い出を書き残すためだと思っていた。だからこそジョジーの死という結末は決定的なのだと思っていた。少し違うかもしれない。

単純な「入れ替わり」の可能性があるのなら少し話は変わってくる。

現在第4部、ジョジーの「肖像画」を家族で見に行くシーンを越え、「真実」が打ち明けられはじめた場面に差し掛かった。

物語は単純に収束していきそうだけれど、語り手の謎(クララの不親切さや語る動機)の謎は依然残っている。

11月12日追記 『クララとお日さま』読了

読了した。いやー面白かった。

ジョジーは死ななかった。なるほど、死ななかった。

ジョジーは死なない。いっときはクララがジョジー亡き後、二代目ジョジーとして生きるという計画が遂行されそうになっていたけれど、クララの計画が功を奏し?ジョジーの体調は良くなり、大人になった。

クララはジョジーが大学へ進学するまで立派にAFとしての役割をこなし引退。AFとしては最良の人生を歩んだ結果となった。

この結果についてどう思うかは意見が分かれるだろうけど、僕はあまり小説で哲学的な問題とか、倫理的な問題とか、そういうことを考えるのは好きではないというか、そういうことは日頃身の周りのことで考えれば良いと思う派なのでここでは割愛。

しかし小説の技巧として、読者の心にひっかかりを作る、それぞれの登場人物が行う倫理的な判断の色々が絡み合った話の進め方が美しいレイヤー構造を成し、精神にとっても、精神の目にとっても重層的な物語に感じるよう構成されている点に感動した。

視覚的な意味の重なり合いなど、意味的にも想起される視覚的にも幾重にもレイヤーを重ねて見せてくれるお話。

それは現実の、僕らが思い出を思い出す感覚ととてもよく似ており、良いことも、悪いことも、重なり合って、ときに恣意的にあれとこれを結び付けて、そのときそのときの判断とか、葛藤とか、そういう感情を含めた景色を積み重ねにより今がある、という人間的な営みを、クララというAFの少女が行っている。

クララがそんな語り手だから、僕ら読者にだけは、クララがAFであり、人とほとんど区別のつかない心の働きのようなものがあることを理解している。冷静で観察能力に優れ、配慮する心、健気な心、献身的な心、忠誠心、愛がある少女だということが分かる。

だからこそラストは少々胸に詰まるものがあるのだけど、ラストを反射的に批判するのを避けるための仕掛けが随所にみられる。ジョジーはクララを大変気に入っていたし親切にしたけれど、最初から一貫してAFとして扱っており、その境を越えたことはなかった。

面白かった。もう一回読みたい。今度もう一回読もう。

お日さまの視点と不在の視点、入れ替わりの心理的準備

クララは本当に優秀。

ひとつ、お日さまにお願いすることでジョジーに特別の栄養を分け与えてもらえて、ジョジーが見事回復する、そのためには「汚染」の原因である「クーティングス・マシン」を破壊する必要がある。その上で、お日さまの休憩所である納屋でお祈りをする、という一連の、僕らから見れば非合理な計画に躍起になる点だけが、クララの、アンドロイドらしい、愚かで融通の利かない点に見える。

しかしそれでさえ、リックのためにかつて恋人関係にあった男性に援助を仰ごうとするリックの母親や、死んでしまうかもしれない娘とずっと一緒にいるためにAFを購入し、AFに娘の特徴を覚えさせ、特別に作らせたジョジーの依代を使って身代わりとする計画を立てる母親と、どれほどの違いがあるのだろう。

ああそうだ入れ替わりと言えば、結構最初の方、クララがジョジーの家について間もない時期の部分で「お日さまにはとてものぞき込みやすいキッチンだったでしょう(72p)」というところがあって、こういうところでも巧みに「入れ替わり」の仄めかしがされているのだと思った。

僕の感じたことでしかなく、意識的な技巧なのかどうか分からないけれど、お日さまを擬人化するだけでなく、家の間取りのようなものを説明するときにクララからの視点だけではなく、「お日さまものぞき込みやすい」という風に、視点を真反対にすること、くるっと入れ替えることへの心の準備がさせられている。

このことがあったから、本当の本当は「ジョジーがクララの視点による独白」という可能性もあるのではないか?とか考えながら読んでたんだけど、やっぱりそれは考えすぎだったっぽい。

まだ捨てきれない考えだけど。ジョジーが生きていて、「ジョジーの大学進学と共に不要になるクララ」というものに納得感を与えるとしたら、それは語り手としてのクララが不要になった、という程度の話にすれば良いのではないか、という気持ちもある。

まだもう少し書いておきたいことがある気がするけれど読み終わったばかりで全然まとまっていないのでまたいつか追記しようと思う。

 

 

 

 

 

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