移動が前提にあり、自分の人生は自分で選ぶのが当たり前になった現代では、人は多分一昔前より積極的に、自分のアイデンティティを獲得するために動くことができ、確かめるために動くことができ、満たすために動くことができる。
自分は何者なのか、何が自分の幸せなのか、何をして喜ぶのかを探す術がたんとある。
均質化した社会の中で、自信を持って自分はこういう人間なのだと言いにくい現代だからこそ、地域は誰かのアイデンティティを満たし得る場にならなければならないと思います。
僕らは自分のアイデンティティを満たせる場所を探してる
ここなら自分らしくいられるんじゃないか、ここなら日々が満たされるんじゃないか、ここなら、自分ってやつにちょっと自信が持てて、もしかしたら自慢もできるんじゃないか。
そんな風に思わせてくれる場所を、僕らは自分の限られた貴重な時間を使う場所として決定するのではないでしょうか。
個人化の時代で多様化の時代だから、チラチラと周りを伺ったその狭い視野で観測した平均値とか普通象って幻想に惑わされることなく、なりふり構わず、生きたいように生き、過ごしたい時間を過ごし、極端に走り、かつど真ん中に居座る勇気が必要です。
きっとそれは「地域」も同じで、自分(地域)が一体何者なのか、何が幸せで、何をして喜ぶ人が集まる場所なのか、何となく形作られてきた「地域像」に惑わされることなく、なにふり構わず探すことができれば、何か今の「まちおこし」の壁を越えられる気がしないか。
前回の みんな架空のまち では、地域を守りたいと思ったとき、例えば地域に人はいなくてもいいんじゃない?という、もちろん本気で言ってるけれども、どちらかと言えば僕らが持つ「地域像」の枠を取り外すため、まちで思考実験をして遊ぶようなことを書きました。
まちは今、僕ら一人ひとりが確固としたアイデンティティを必要とするのと同じように、同じ切実さで、同じく焦燥に駆られながら、アイデンティティというものを求めているのではないかと思います。
それを得るためには、周りをチラチラ見てから自分はどうだろうと考えるのは止した方が良いと僕は思う。
まちおこしで本当に守りたいものは、アイデンティティだろう
地域を守りたいと言っていても、実のところ本当に守りたいのは、自分のアイデンティティだろう、と僕は思います。
僕自身、故郷に帰ってきて、この町にもう少し面白いことが起きればなと考えるとき、その思考と嗜好が自分のアイデンティティなのだという実感があるからこそ、こんなブログが書ける訳です。
アイデンティティってなに。
僕もうまく説明できないけど、「何が自分の幸せで、自分が何をして喜ぶ」かが分かってるってことだと思うし、「何を以ってあなたは自分を正当だと主張しますか?」ということだろうし、自分が自分であると認識できる何かのことだと思う。
他のまちおこしを頑張っている人たちだって、その活動に、その思考に自分のアイデンティティがあるからやってるのでしょう。
僕らが地域を守りたいと思うのは、地域という入れ物の中に、今まで蓄積してきた自分を肯定するものと、今、そしてこれからの自分を肯定するものがあるからだと思います。
具体的にはどういうものかと言うと、過去には思い出や愛着や実績があり、今とか未来にはやりがいとか使命感とかそういうものが詰まってる。
地域を守りたいといってもよそと土地を争ってる訳でもないだろうし、5人集まらなくちゃ部として認められないのよ的なこと言われてる訳でもなし、使徒に襲われそうな訳でもない。
存続の危機を感じるのは「地域」じゃなくてそれぞれのアイデンティティで、人様から認められないというのはその地域で暮らす一人ひとりのアイデンティティの衰退に成り得るということ。
○○国民であるとか、○○町民であるとか、○○校生であるということがアイデンティティに成り得るのだから、まちづくり及びコミュニティ作りというものは、アイデンティティ作りと言っても良くて、それはなかなか簡単なことじゃない。
就活のようなまちおこし。とりあえず、なんでも良いから何かになりたいって心理。
「自分が何者でもない」というのは宇宙で宇宙服を脱ぐみたいに怖いことです。
だからじきに「学生」じゃなくなる人は、その先「何者か」になるための入れ物や宇宙服の代わりになるものを得るための、就職活動をする。
一秒たりとも「すっぴんの自分」を社会に晒すわけにはいかないのです。誰かに何者かと認められていないと、すぐに自分という存在は呼吸困難に陥って蒸発してしまうのだから。
別に何をしていても、何をしていなくても自分は自分なんだけど、僕は大学時代そういう風には考えられなくて、就活の風潮に乗ることを潔しとせず、自分の道をと息巻いてそれが個性だと思っていたけれど、その実誰よりも未熟だからこそ何者かになってしまって自分を失うのを怖がっていた。
そんで拒否反応を示したみたいに就活らしいことは一切せずに卒業して、どうせだから海外行こうってワーホリに逃げたから実際に、世間的に「自分が何者でもなくなる」怖さを何となく知ってる。
今はライターとしてお金を貰ってはいるけれど、そういう風に何となくの職業を人に説明することにまだ恥ずかしさというか抵抗を覚えていてなかなか名刺が作れずにいる。
その話は今別にいいんだけど「まちおこし」について考えると、とにかく「社会人」として認められるために、とりあえず「就職活動」をする学生みたいだ、と思います。
とにかく「地域」として認められるために、とりあえず「まちおこし」をする、みたいな空気はないでしょうか。
どんな形でも良い、とにかく内定が欲しいと思って売りになる自分を探した三年の頃と同じように、まちおこしをしている地域も、どんなものでも良いからとにかく売りになるものはないかと考えていはしないでしょうか。
そんで結局説明会に出席するようにまちおこしフォーラムを開いて、履歴書を書くようにゆるキャラをデザインして、スーツを新調するように空き家を綺麗にしたりして。
それらしさではなく自分らしさを受け入れる場
何が言いたいのかと言うと、別に人のやってることに文句を言いたい訳じゃなくて、僕は僕で自分を肯定したいのです。
就活はしなかったけど多分時間が戻ってやり直せても就活しないで農家のバイトして海外行って、書くことは苦にならないし好きだからずっとやってたライターって隠れ蓑を抱えたまま何かに駆られて遠くに出稼ぎとか行って、そんで実家に戻ってきて、衰退ぶりにびっくりして、ブログ書き始めると思う。
自分探しと言えば馬鹿にされるかもしれないけど、これまでの僕の人生は自分探しそのものだったし、これだけ考えても自分にフィットするものをいまいち探し出せずにいるのだから、あのとき就活ムードの気配に乗っかって就活なんてしなくて良かったと心から思う。
きっと就活して就職したとしても、僕はこの先10年も20年もここでこの人たちとこの仕事をするのだと考えた瞬間に辞めたくなって、辞めて、どこかに行っちゃって、実家に戻って来て、衰退ぶりにびっくりして、ブログ書いてたはず。
そういう覚悟のない感じ、現実を見ない感じがダサいって評価もあると思うけど、探しても探しても見つからないアイデンティティってやつは、例えなくて困るからと言って、やっぱりその場しのぎの急ごしらえで取り繕うものでは絶対にないと思う。
既製品のアイデンティティは既にアイデンティティではなくファッションだ。
結局そんなファッションが窮屈になって、流行遅れになって、でもただ人並に息ができるってだけでそこから抜け出せなくなって、そんで酸欠状態のまま自分ってなんなんだろう?と考えるようになるのなら、はじめから愚直に、やたら迷走気味に、世間には白い目で見られながらでも、僕が僕たる理由は何なのかを考えた方が良い。
僕の脳はまだ若々しく、考えることに飢えていて、書くことに飢えていて、そこが仄かだけど確固としたアイデンティティとなりつつある。
あくまで僕の好みだけど、地域だって同じことで、アイデンティティを守りたいのであれば、空気に流されて「それらしさ」を求めることに邁進するのではなく、それぞれの自分らしさを受け入れる場として迷走するべきだと思う。
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