僕らは何者かに「記録」するよう仕向けられているんじゃないか という妄想についてここのところ考えています。
僕らは誰かの実験室で作られた惑星の中の生物であり、シュミレーションの対象でしかない上、自分たちから進んで自分たちの経験を記録するようプログラムされている、みたいな妄想。
※(ツイッターでお知り合いの方から「シュミレーション仮説」というものの存在を教えてもらいました。僕には難しかったけど面白かったですよ。興味ある方はぜひリンク先を見てみてください)
他の視点で言えば、僕らに記録するよう促した何者かは、僕らの苦しみをすべて経験するためにそんなことをしてるんじゃないかっていう妄想もしました。
なかなか荒唐無稽な話ですが、より緻密に考えればちょっと説得力が出てくるかもしれません。
ただし、さらに今日考えたいのは、タイトルの通りでありますが、僕らのする「記録」ってかなり嘘が混ざるよね?って話です。そういう問題についてどう考える?という話。
ここのところの一連の話は、未来的に、僕らは記録しようとする意志なく記録させられるようになるだろう、という予測を発端に考えているのですが、それにしても僕らは今の段階で虚偽の記録をしすぎている。
そんな僕らが、真実の記録なんて本当に望む未来が来るのだろうか?
ありのままに「記録」するって無理な話
正直、ありのままに「記録」するって無理な話です。
最大限ありのままに記録しようとしても、どうしても作為とか編集とか解釈が入り込んでしまう。
僕らの純粋な「記憶」だってそうです。「記録」じゃないですよ「記憶」です。
あのときあいつがああ言って、そしたらあいつがこう言って、という記憶はかなりの確率で実際と違いますよね。
「あのときあの子の顔は僕を軽蔑したに違いなく、不愉快そうな顔で僕を睨みつけたのだった」と解釈し記憶しているけれど、実際はくしゃみを我慢していただけかもしれない。現実って自分が思ってるよりドラマチックじゃない。
つまり僕らふだんから全然真実なんて見てないってこと。そこに「記録しよう」という意志が介入するならば、当然、その時点で頭の中で独自の解釈や編集を経たあとの改ざんされた記憶が記録されるに違いない。
今あるすべての記録だって、そういう風に作られた記録でしかありませんよね。いうなれば、記憶の上位互換版レプリカです。
いや、本当に目と一体化したカメラができて、本当の本当にありのまま記録されるようになればそういう問題はなくなるかもしれないけれど、そもそも「何かを見る」という段階で意志の介入がある。
だから、僕らはどうやっても「真実を記録する」なんてことはできないんじゃないか?ってのがこの記事で漠然と考えてることです。
僕ら嘘をつき続ける
この一連の妄想を考えるきっかけになった短篇小説『偽りのない事実、偽りのない気持ち』でもこの記事で書いているうな問題が論じられていました。
僕ら真実をいつも知りたいと思うだろうか?そうすることで起こる弊害もあるんじゃないか?
すべてが記録されていて、いつも半自動的に過去の事実にアクセスできるなら、実質「思い出す」という行為が必要なくなり、美化された記憶、かけがえないのない思い出がなくなってしまいやしないか?みたいなこと。
本当に真実を記録できるなら犯罪の追跡や事件の追求には役立ちます。解釈も改ざんもない記憶があれば、どんな事件もすぐに解決できる。
それは良いとして、「感情や意志を持って解釈し記憶する」という行為を奪われたら、僕らはいったいどうなってしまうのでしょう?
『偽りのない事実、偽りのない気持ち』はそんな世界の出来事が書いてある小説なので、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。話は逸れるけど表題作の『息吹』は素晴らしかったです。ちょっと疑問点もあるんだけどそれはまた別の機会に書こう。
さてこの記事の結論なのですが、僕は、どれだけ「記録」が高度になっても、必ず空白が芽生え、いつまでも作為は途絶えないと思います。
僕ら嘘をつき続けるよきっと。悪意も何もなく、巧妙に自分だけの真実を作り出すに違いない。
何かを定めればいつも「それ以外」が生まれるものですし、いつもいつも「語られない部分」というものは存在すると信じます。そういう余白を見逃さないクリエイティブな心が、僕らを人間たらしめていると思う。
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