孤独なままでいて良いんだな

発想と行動を記録する

コミュニティスペースがどうこうとか、まちづくりがどうこうという話をすると、なんとなーく、「社交、賑やか、盛り上がり、繋がり、広がり」と言った、陽性の色合いを持った事柄を目指すことが前提になってしまいます。

具体的には「もっとたくさんの人に知られると良いね」とか「ここも移住者が増えてくれないとね」とか、「人の応援を集められるかどうかが大切だよ」とか、やんわり、僕が目指す理想像がそういう方向に誘導されてしまうことが多いのです。

その意見は否定するようなものじゃないし、実際、いろんな人に知られたり、いろんな人が来てくれるのは良いことだと思う。活動が応援してもらえたらそれは嬉しい。

だけど、それは僕にとって「興味の無い善」の一つで、結果的にそうなることにあまり拒否感はないけれど、僕が積極的に目指すことじゃなかったです。そのことを書く勇気が出てきたので、書いておこうと思います。

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孤独の力

メンタリストdaigoさんのチャンネルで、「孤独の力」をテーマにした放送を見てかなり勇気づけられました。

有料のチャンネルなので内容はあまり説明しませんが、世の中には「孤独でよい人」が一定数いて、その性質を才能と見なし活かすことで達成できるものがあるというようなお話しでした。

僕は「孤独でよい人」です。

結果的に気の合う人と巡り合えたら嬉しいし、仲間と呼べる人が近くにいたら良いなとは思いますが、不特定多数の人を集めるために何かする、見知らぬ誰かに認められるために何かするというモチベーションはあまりありません。

たまにやってみるとあまり向いていなかったりします。

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僕はとにかく内に向いています。上記のクラウドファンディングの企画だって、不特定多数の大勢に応援を求めるものでありながら、ごく内向きなものです。

言うなればこれは僕は内向き人間なのだと開き直る勇気が出た、という記事なのですが、こういうとやはり「だけど何かしたければ理解してもらう必要がある」とか「人は一人じゃ生きていけない」とか言われがちです。

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自分に納得し、満たされた上で出会える他人

理解者はごく少数で良いし、一人では生きていけないのはごもっともだけど、だからこそ誰でも良いわけじゃないし、言うなれば僕はとにかく大勢の人間が生きているこの世の中で、雑多じゃない、小さくても硬い人間関係を作るためにこうしてブログを書いたり創作をしたりしていると思います。

僕にはもっと大衆とか不特定多数とかを斥ける勇気が必要だし、何より自分はこういう人間なんだ、ということを表現していく必要があると思います。

その必要に駆られると共に、「とは言ってもみんな(漠然とした他人)はどう思うかなあ?」という視点でブレーキをかけてしまう癖を取り外すことを考えるとワクワクしてきます。

もちろん、他人は必要です。だけどそれは不特定多数の他人ではなく、僕が僕に納得し、満たされた上で出会える他人だということが分かりました。

僕は無理せず孤独を謳歌し、その煌めく孤独に共感してくれる人と出会うことが方向性として正しいと思います。

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