「個性的」だということは、「誰かに近づく」ということだと思います。
なぜなら、個性というのは「人と人との関係性の中で生じる差異や違い」のことを指すと考えるからです。
ところが一般的に個性と言えば、誰とも違う、唯一無二のオリジナリティやキャラクターというイメージがあります。
ある意味、多くの人間から遠ざかることが個性的であることだ、という認識がそこはかとなく、少なくとも僕の意識の根底に流れている。
しかし、もし「自分とは何か?」「自分にできることは?」「自分じゃなければいけないことは?」と考えるのであれば、きっと「誰かに近づく」という意識の方を強く持つことが大事なのではないか。
そして、「もしかして僕はその意識を持って生きることが不得意なのではないか」と思いました。
「個性的」だということは、「誰かに近づく」ということだ、ということは、僕の場合、強く意識して良いことだと思う。
この話にピンと来る方はいるでしょうか。
個性は近づけば分かるし、遠ざかれば消え失せる
個性は近づけば分かるし、遠ざかれば消え失せるものだということは、このブログでも何度か書いてきました。
「なかなかいない変わり者の友人」を、誰もが一人は持っていたりする。
身近な際立った存在が、俯瞰して見るとわりとどこにでもいるのが分かる、というのは矛盾でもなんでもなくて、単に近くにいる人は遠くにいる人よりも個性的に見えるということだと思います。
だから僕らの個性は距離にある。近い人間関係の中で生じる。絶対的なものではなく、あくまで差異が際立った結果である。
もちろん完全オリジナルの、絶対的な、という形の個性もあると思いますが、本当に誰とも違う唯一無二の存在が個性であれば、僕らはそもそも誰とも違う存在であります。
でも、僕らが考える個性とは、「特定のコミュニティの中で際立つ存在」としての個性であり、「ごく限定的な場面での代替の利かないキャラクター性」のことだと思います。
唯一無二の際立った存在になろうとして孤立していたのでは、本当に得たい個性が得られないのではないか。
誰かに近づくことで自らの個性を問いたい願望
だから僕らにとって重要なのは、「どんな人間関係の中にいたいか」なのだと思います。
つまり、誰の近くにいたいか。どんな人の近くにいたいか。
実は、僕にはあまりこれがない。根が引きこもりで内向的な性格なので、家族の近くにいたいとは思うものの、こんなコミュニティに属したいとか、誰に認められたいという気持ちもあまりない。
その家族ですら、僕の孤独癖をカモフラージュしてくれる存在として大事にしてるのではないかと思うことがある。
でも最近は、それは別に実体がある必要はないし、もっと概念的なものでも良いかもしれないと思うようになりました。いや、ずっと思ってたかもしれない。

お互いに知っている必要もないし、それが従来の認識からしたら「人間関係」と呼べるような代物じゃなくたって良い。
このあたりはまだ咀嚼と説明が必要な気がしますが、少なくとも僕は今「誰かに近づくことで自らの個性を問いたい」願望があります。
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