大きな言葉を使うと伝わりやすいけど個性が削がれる

発想と行動を記録する

大きな言葉をどれくらい使うか、ということを、ここ数日考えています。

大きな言葉というのは「カテゴリー」と言えば良いか、それとも「上位語」と言えば良いでしょうか。

例えば、僕がまちについて個人的に考えたりなんだりしていることは「まちづくり」という言葉でくくれるかもしれない。

旧佐藤医院は「コミュニティスペース」や「コワーキングスペース」として紹介しているので当然全国にある「コミュニティスペース」の中の一つ、として認識されるだろう。

この大きな言葉は、人に伝えるときに便利です。つかだは田舎で何をしてるの?と聞かれて「まちづくり」と言えばとりあえず納得できる。

旧佐藤医院とは何なのか?と問われて「コミュニティスペース」だと答えれば、なるほどね、となる。

しかし、大きな言葉はそんな便利な面がある一方で、細部に関して興味を持たれないとか、共通認識を越えた領域はまったく無視されてしまう、という不便もあります。

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大きな言葉の不便な点

旧佐藤医院は「コミュニティスペース」です。

「コミュニティスペース」という言葉は人口に膾炙した言葉なので意味は簡単に伝わると思います。

しかし一つの言葉で理解してもらえるということは、その言葉に対する共通認識があり、それが大きく隔たっていないはずだ、という信頼、もしくは暗黙の了解があるからこその現象です。

ということは、それらしくない振る舞いや設定や意味について理解されにくくなることがあるということです。

例えば旧佐藤医院の利用に料金がかからないこと、会員制を採用していること。

まあこれは説明すればすんなり分かってもらえるからまったく困ってはいないのですが、例えばもっとファジーな部分について困ることがあります。

大きな言葉に付随する大雑把なストーリー

取材などで、たまにインタビュアーが期待しているストーリーが透けて見えることがあります。

「地域の人達の、思い出の場所を残したいという想いで運営されている」とか、「その想いは多くの人を巻き込んで、今ではまったく新しい価値を作り出している」とか、そういう「地域のコミュニティスペース」とか「古い建物の活用」という言葉に付随するストーリーに落とし込まれそうになることがあるのです。

そうっちゃそうだけど、そう言われるとなんか違って、核や動機はもっと別なところにあったり、説明しえなかったり、特に何も考えてなかったりします。

だからそういう風に牽制してしまうと、少し期待外れ、というような表情をされることがたまにあります。

手垢のついた言葉とストーリーを安易に使うことで個性をそぎ落としてしまう

「コミュニティスペース」のようなカテゴリー、もしくは上位語と言った大きな言葉を使えば説明が容易にはなりますが、その概念に付随するありきたりなストーリーも付きまとう、という弊害があります。

言葉に手垢が付くと、ストーリーにも手垢が付きます。

これは個性を損ねかねないことで、実につまらない現象です。

言葉から現実が硬直していきます。

この話も「ステレオタイプ」とか「先入観」という言葉を使えば簡単に伝わる話かもしれません。

しかし簡単に伝わりそうな言葉には便利な面も不便な面もあると考え、伝えたいことがあれば多少遠回りでも自分の言葉で伝えるということが大事だと思います。

そうでなければたちまち個性が削がれてしまう。自分から個性をそぎ落としておくことになる。

 

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