グローバル化が進む昨今の文明社会においては、あらゆるものが全体的に欧米化ないしは西洋化していくものなのかなと思います。
食べ物は言わずもがなだけど、建造物や文化的なことまで、日本人の僕らは割と節操なく、なんでも受け入れる傾向にある。逆に東洋化していく文化はあるんだろうかと考えれば、僕には分からないけど多分そんなにないんだろうなと思う。
それは西洋文化が取り入れやすく、真似がしやすく、隠すというよりは開けっぴろげで、受け入れやすく、広まりやすく、陽性であり、合理的で、つまり文明的な特色を持っていて、東洋文化はその反対の性質に親和性があるということなのかもしれません。
それが良いとか悪いとかじゃなくて、この記事で話したいのは、創作とか芸術の領域もまた、西洋のスタイルに傾きつつあるという流れから、夏目漱石の「草枕」に見られる創作論の話をあくまでこのブログのコンテンツとして、すごく恣意的に解釈していきたいと思います。
Contents
とかく人の世は住みにくい。世俗を離れる手段としての芸術
恋はうつくしかろ、考もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当たれば利害の旋風に巻き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚に上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
『草枕』の冒頭はみんなよく知っているはずです。「とかく人の世は住みにくい」ってヤツ。
上の記事で最初の方のことは書いたのだけど、この記事はその続きのような感じです。
人の世は住みにくいけど、人でなしの国に行く訳にもいかないから、住みにくい人の世を少しでも住みやすくしなきゃね。芸術には人の心を長閑にする力があるから尊いよねと主人公の画家は創作について考えます。
ところでなんで芸術には人の心を長閑にする力があるの?と言えば、精神的に俗世を離れることができるからでしょう。
だってどんな小説での芝居でも、見ている間はただの傍観者で、自分には全く関係がありません。登場人物がどんな人であっても、仮に凶悪な犯罪者であっても、実際の生活で凶悪な犯罪者に出くわすような危機を感じたりはしないでしょう。
つまり第三者であり、余裕のある観察者なのです。だからこそ、作り話は面白く、手軽に「私」から離れることができる旅の入り口となる。
夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットは思考をするための創作論
という記事で書いたことだけど、私を離れることは創作者の必須スキルのようなものだから、「誰でも見たり読んだりする間は詩人である」と言っているのです。
世俗(私)から離れられない創作物
でも、実際僕たちが出会う創作物はどうだろう。ちょっと長いけど続きを引用します。
それすら、普通の芝居や小説では人情を免れぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。
俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。
ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。
いくら詩的になっても地面の上を駆けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレ―が雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
シェレ―とか雲雀とかってなんのこと?と思った方はぜひ本文をご覧ください。
「私」を離れて眺めるからこそ、美しいものは純粋に美しく、恐ろしいものは純粋に恐ろしく、寂しいものは純粋に寂しいと、利害の関係なく自然のままに眺めることができるのに、特に西洋の詩になると世俗の延長のようなものばかりで、ちょっとしんどいなと言う感じでしょうか。
草枕の主人公は世間を離れられる詩が好き
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。
採菊東籬下(きくをとるとうりのもと)
悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる)
ただそれぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向こうに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。
超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。
ついでだからこの後も引用しておきます。主人公はこういう世俗を離れた詩が好きなんだって話です。
独坐幽篁裏(ひとりざすゆうこうのうち)
弾琴複長嘯(きんをだんじてまたちょうしょうす)
深林人不知(しんりんひとしらず)
明月来相照(めいげつきたってあいてらす)
ただ二十字のうちに優に別乾坤(べっけんこん)を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰(ほととぎす)」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
確かに、こうして完全に世俗を離れ、一人自然のうち、仙人のように暮らすのに一種の憧れってありますよね。
詩を書く人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれてる
キリが悪いのでもう少し引用するんだけど、この先引用文は読まないよという人のために補足するとすれば、主人公は上に引用した文に書いてあるような、世間から離れる詩が好きで、今絵の具箱を担いで旅をしてるのも、実際に俗世間から離れてぶらぶらと楽しみたいからだよって続きます。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源郷に遡るものはないようだ。余は固(もと)より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。
ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。
ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵具箱と三脚几(さんきゃくき)を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。
淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔狂だ。
ほんとただただ、世間で実際に生きている人たちの間で暮らすのが疲れて、全部忘れて眠りたくなるようなことがあるから、こういうどこまでも(私)を離れられる詩っていうのは必要なんだと主人公は痛感しているようです。
そして自らも絵描きとして、そのような芸術のかたちを求め歩いている。
主人公の旅は現実逃避的です。作中披露される創作論の数々も芸術を至高とするというよりは芸術を笠に着て、世俗を軽蔑しているという印象。
いや、画工としてのプライドというか、切実に探し求めている美というものはあるんだけど、少なくともそれは単純に世俗を離れることで見つかるものではないよねって本人も初めから気づいているのでしょう。
主人公がしているのは、「世俗を離れる」という行為で以て世俗を第三者的に眺めるということなのではないか。
世俗を離れたいと考えてはいるけれど、それは同時に世俗を強く意識するということでもある。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
あくまで「住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」という気持ちで旅をしているのでしょう。世俗って嫌だ嫌だ、もう疲れたと心の底から思いながら。
草枕の結論
疲弊した現代社会の若者が引きこもってしまうように、絵の具を担いで放蕩の旅に出る主人公ですが、『草枕』はただ世間ってくだらねえよな、疲れるよなってだけの話ではありません。
あくまで冒頭で言うように、生きにくい世の中だからこそ少しでも生きやすいようにしなきゃな、その手段として芸術ってあるよねという、「創作論」が中心にある話に見えます。
じゃあ『草枕』では結局どんな風な結論になるのかと言うと、「世間の中で、つまり人情の中にあって第三者的、客観的になることでこそ芸術は生まれる」というもの。
善は行い難い、徳は施しにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人に取っても苦痛である。その苦痛を冒すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん。この趣きを解し得て、始めて吾人の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進の心を駆って、人道のために、鼎钁(ていかく)に煮らるるを面白く思う。もし人情なる狭き立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術はわれら教育ある士人の胸裏に潜んで、邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念の結晶して、燦として白日を射返すものである。
この部分、有名な冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と対になってる感じがありますよね。
主人公の考えで行くと、心に安らぎと純粋な感動を与える芸術(美)とは利害や損得勘定に塗れた世俗から離れたところにあります。
だけど目的は人里離れたところに現実逃避をすることではなく、あくまで芸術家として生きにくい世の中を少しでも生きやすくすること。言い換えれば、世俗の中にある美を見ることなのではないでしょうか。
では主人公が信頼している芸術はどうやって世俗に立ち向かうか、という話になります。
この世俗の倦んだ感じを払拭するのは、自分の損とか苦痛とかを度外視して、人道のために働く、慾に塗れた世俗らしからぬ人の心で、芸術はそういった世間の理屈に合わないが確かにあるものを切り取って見せ、気持ちよく、面白くする力(苦痛に打ち勝つ愉快)がある。
これを心のうちに理解する人の行動は壮烈にもなるし閑雅にもなる。ありていに言えば美がある。
だからこそ、芸術家は世間(人情)の中にあって、世俗の膿に飲まれないよう、第三者的な立場で眺めなければならない。
芸術は僕たちの現実を少しはマシにしてくれているだろうか
では、実際我々が接する芸術というものは、世俗を少しでも生きやすく、マシにできているでしょうか。
それは多分間違いなく、芸術がなければ人生は味気ないと誰もが感じるのではないかと思います。
画も詩も小説も映画も芝居も音楽も、どこか世俗を離れた超越的な美を僕たちに見せてくれます。
現実ではこうはいかないよということ、それでいて人としてこうありたいと思うようなことを芸術は軽々と再現して、僕たちの前に見せてくれる。人の世も捨てたもんじゃないなと思わせくれる。
芸術に触れている間だけは、欲もなく、誰もが美を間近に見る詩人になれるのです。
だからこそ、芸術は腹の足しにはならないかもしれないけど、尊いのでしょう。
でもどうだろう、これは主人公がはじめ軽蔑していたところの「西洋の詩」もしくは「西洋にかぶれている」ということなのではないのかな。
そういやあらすじには全然触れてないからなんのこっちゃと思う方もいるかもしれないけど、旅を通して、強烈な個性を持つ那美さんという画になる女性と出会って、心変わりしたのかもしれない。
画になると思いつつも「何かが足りない」と全然最後まで那美さんの画が描けなかった主人公です。
最後の最後では、出征する元夫を見送る那美さんの顔に浮かぶ「憐れ」を見てとって
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟に成就したのである。
で閉じる『草枕』です。
多分このあたりが東洋的で、第三者的なのかなと思う。
だってこのとき主人公はかなり那美さんと仲良くなっているだろうけど、どこまでも立場は画家であって、可哀想だなとか、ましてや嫉妬の念なんかまったく持ち合わせていない。ここから教訓を得ようとも思ってないだろうし、悲劇とか喜劇とかって考えていないんだろう。
あくまで眺めるだけで、景色として美しく、一歩引いた立場から画になる光景を見た。
ラストの主人公は人情の中にありながら超然としている芸術の士だと思う。
『草枕』の創作論/芸術は僕たちの現実を少しはマシにしてくれているだろうか(完)
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