興味の無い善の存在について

コミュニティ・メカニズム

善行を為すのも為さないのも個人の自由のはずだけど、ときに「善行を積極的に肯定しないこと」に対して罪の意識を植え付けられてしまうことがあります。

「善」は絶対的ではなく、過度に強要する空気があったり、意見をはっきり口に出す機会があったりすると不快な代物になってしまうケースがけっこうたくさんあるのではないでしょうか。

善性や善行も振りかざせば暴力になる、ということだと思いますが、ときにこの認識ができず、独善的な言動をしてしまうことも僕たちはあります。

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結婚しないのは自由だが、結婚を否定する発言をすると空気が変わる

分かりやすい例を挙げるとすれば、「結婚」に対して窮屈を感じることが個人的には多かったような気がします。

「結婚」は一般的には善行なのかもしれません。

しかし当然、たとえ相手がいたとしても結婚するしないは各個人の自由であることは間違いありません。

もちろん現代に生きる多くの人は「結婚を強要」なんてしないと思いますが、無言の圧力とか、とは言えいつかは結婚するんだろ?のようなやんわりした期待とか、そういうものが世間には溢れていて否定しにくい空気がある。

「無条件で善いことになっている」事柄は、スケールの大小を問わずたくさんあって(小さいもので言えば流行りのゲームをやる/やらないとか)、僕らはたとえそれに興味がなくても、折に触れて善行を為すかどうかの選択を迫られる。

明言しなければ個人の自由でそれぞれの意見だった出来事なのに、「善の否定」を行わなければならなくなったとき、僕らは負い目を感じてしまう。

興味の無い善

善行や善性(だと相手が思っていること)を否定しなければならないとき、僕らは少なからずお互いに傷ついてしまいます。

お互いが、相手の暴力の気配を感じるのだと思います。

善いものは振りかざして良いのか?善いものは常に善いのか?善さは誰もが実行するべきなのか?

そう問われれば多くがNOと答えるだろう。「善を振りかざす」なんて、言う方も言われる方も嫌です。

だから実際目の前に突き付けられる「善」なるものに対してNOを宣言するのは大変勇気がいることであり、肩身が狭いものがあります。

だからどうすべきとか言う話をしたいわけでもありません。

ただ僕らのコミュニケーションの中には、しばしばこういうことが起きると思う。

誰にでも興味の無い善がある。それを認めるのは難しく、「善性」で以てしても世の中は一つにはならない。

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