小さな地域に必要なのは、特定のニーズを持った層ではなく、繊細な気分を持て余したあなた

まちづくりを考える

僕らの人格や思想というものはそれぞれ一人につき一つではありえず、そのときそのときの気分や置かれている状況によってコロコロと変化するものだと思う。

自分は本当に一人か?と誰かに問われれば、そりゃもちろん自分は一人だと自信満々に答えられる人がどれくらいいるのかなと思います。

子供にはこの問いの意味が分からなかったりするかもしれないけれど、大人になるに従って、自分にはいろんな面があることが分かっていくものではないでしょうか。

そんな僕らのあらゆる面、あらゆる気分を満たすのが、北海道で言えば札幌のような大都市だと思う(いまこれ札幌で書いてる)。

バカみたいにはしゃぎたいときもあれば、ゆったりしっとり飲みたいときもある。打ちひしがれて自暴自棄のようなときもあるだろうし、ハッピーのど真ん中みたいな気分のときもあるはず。

そしてたいていどんな気分のときも、札幌には必ずと言って良いほど「いまの自分」にマッチする場所がある。どんな気分のときはどんなところに行けば良いのかを僕らは何となく知っていて、その場に規定された気分に沿って自分の行動を操作したりする。

僕らは気分で場所を探して動くし、場所に漂う気分に動かされることもある。

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田舎には気分のバリエーションがない

一方、田舎だとどうでしょう。

「この町にはなにもない」というのが田舎町の常套句だと思うけど、多分無いのは場に漂う「気分のバリエーション」だと思う。

こんな気分のときはここに、あんな気分のときはここに、というバリエーションがとても少ないような気がする。

寂しいときどこに行けば良いだろう、嬉しいときどこに行けば良いだろう。寂しいとか嬉しいだけならまだ良いけれど、気分ってそんな簡単に言葉にできる感情のこととは限りませんよね。

でもあえて言葉にするとすれば、例えば僕らはこんな気分を持っている。

不安か興奮か、原因はよく分からないけれど、なぜか今日はまだ眠りたくないみたいなときとか。

なぜか無性に傷つきたいとか自分をいじめてみたいと感じるときとか。

捉えようのない怖さに飲み込まれて世界を疑ってみたいと感じるときとか。

今生きている人が一人残らず幸せだと感じていれば良いのに、と思うときとか。

なにそれ笑 と言われそうな気分ばかりだけど、知ってる感情では説明できない気分に飲まれることはないでしょうか。

なんだこれ、なんて感情だって瞬間。

田舎にはあまり多様な景色がなく、ガラリと変わる空気みたいなのもなく、人がいない分大きな自然を体感することはできるけど、僕らのサイズの機微を受け止める繊細で名づけようのない空気を持った場所は少ない。気分のやり場がない。

いや、正確には、気分を包み込む空間はあると思う。大自然とか見るとたいていのことは「どうでも良いかぁー」みたいな気分になる。なんかすごい小さいこと考えてた気がするな、みたいな。とりあえずなんか食って寝れば何とかなるか、みたいな。

これ良し悪しだと思う。

こういうこと繰り返していると僕の感覚では、言葉にできない気分を見つめる感性みたいなものが鈍っていく気がするし、同時に急速に癒されていく感じもする。

気分が飲まれるというヤツ。

僕は田舎のこの感じが怖い。

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 田舎で創作意欲が湧く理由

田舎にいると小さなこと、自分サイズの微妙な気分が大自然に飲まれてしまってどうでも良くなることもあるけど、逆作用でそれにフィットする場がないとそれが内側で膨らんでいく、みたいなことがあると思う。

僕はこれが創作意欲につながると思ってて、発散できないものは自分の中で肥大して言って、吐き出すための場を自分で作ることになる。

カタルシスとかっていうけど、まさに創作者はカタルシスを求めていて、自分の気分がキレイに収まって、発散できる場所を求めるんだと思う。気分のやり場がないから自分で作るんです。

僕がものがたりや創作でまちを満たしたいと言っているのは、あらゆる気分にフィットするものをコレクションして、多様で繊細な人間の機微に囲まれたいという欲求があるからだし、誰かのやり場のない気分が落ち着く場所を用意してあげたいという気持ちがあるからです。

加えて、先ほど書いた田舎の「気分にフィットする場がないとそれが内側に膨らんでいく」という創作に向いた(と僕が思ってる)環境だからこそ、質の高い内省ができるというアドバンテージがあると思っているということもあって、田舎の「何もなさ」や「不便さ」を頼もしく思ってもいる。

内側と外側は繋がっていて、僕ら一人ひとりが多様だから世界が多様になる

僕らは多様です。

それは、この世の中にはいろいろな人がいるという意味でもあるけれど、自分の中にも色々な面があるということでもあると思う。

たくさんの気分でひしめき合った「まち」があって、その中にたくさんの気分でひしめきあった「自分」がいる。

外の世界と内面世界はお互いに鏡の関係で、かつ入れ子構造で、相互的に影響し合いながら増殖して、世の中はできていると思う。

だから、自分の外側を見ることと自分の内側を見る事はとても似ていて、自分の内側を見ることと自分の外側を見ることはとても似ている。

だから、旅は自分探しだって思うんだ【長崎に行ってきたよ】

だけどだからこそ、いつから始まったのだったか連綿と続く物質社会においては、目に見えるものに対する信頼が厚くなって、外側が充実することであたかも自分の生活が充実すると思い込んだ部分があるのではないか。

そういう部分がだんだん薄れてきたとは言え、人が増える町、人が住みやすい町には「こういうものが必要だ」という錯覚や、物質が豊かであれば人は豊かな人生を送れるに違いないという物質への執着はまだまだあると思う。

北海道中どこに行っても面白いみたいな未来

こんな風に思ってるから、小さな小さな地域の役割は便利にするとか人が集まりやすい何かを作るのではなく、「大雑把なニーズ」とは対極の、「繊細な気分」を満たす空間を作ることが重要なんじゃないかと考えています。

それは多分言葉にしにくい空気を持った空間で、謎の個性を感じる空間で、誰かの極一部分に無性にマッチする空間なんだと思う。

ふーん、それでどうなんの?地域は潤うの?

潤わないよ。人工が急増したりもしないし、あまり何も変わらないと思う。

でも心が潤う。きっとごく少数の心が、もしくはみんなのごく一部の繊細な部分が潤う。

内面が潤えば、きっと外側も潤って見える。

それが多分その土地を好きになるということで、そのあとならその場にうまくフィットした「必要」が生まれるんじゃないか。内側と外側は繋がってるから。

だからいま小さな地域に必要なのは「特定のニーズを持った層」ではなく、「繊細な気分を持て余したあなた」だと僕は思う。

そうやって、まだ言葉にできない繊細な気分を満たす地域があちこちにあったら、それぞれの地域が独特な空気をまといはじめ、個性が生まれ、個性が誰かの気分を呼び、誰かの気分がその場にフィットした必要を作り、という面白可笑しなサイクルが産まれるんじゃないか。

そうしたら北海道中(あ、今更だけど北海道のことを想定して書いてますよ)、どこ行っても変わってて面白いみたいにいつかなるんじゃないかなって思う。

 

小さな地域に必要なのは、特定のニーズを持った層ではなく、繊細な気分を持て余したあなた(完)

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