まちの陰翳

まちづくりを考える

谷崎潤一郎が好きな僕でも、『陰翳礼讃』は手放しで支持できるようなものではなく、いかにもおじさんが好き勝手リラックスして書いたという感じに僕には見えるのだけど、なんせタイトルはカッコいい。

谷崎潤一郎 陰翳礼讃

もう少し言えば、谷崎潤一郎の言わんとしていることが今さら分かるというか、こう、なんでもかでも西洋の合理に迎合しないで、この土地やこの土地に暮らす人々の性向に相応しい陰翳の妙を追及すれば、今頃日本って独自の発展を遂げ、もっとミステリアスで、魅力的な国になったんじゃない?って思わないこともないです。

とは言え、したいのは国の話ではなくまず「まち」の話です。

僕らはプロダクトとかライフスタイルだけでなく、思想とかセンスまでごっそり西洋から取り入れ、西洋に寄せていく傾向があるなと思うことがあります。

この話、慎重にしないと控えめな愛国論みたいになっちゃうし、めちゃくちゃ浅い文明批判みたいになっちゃう恐れがあるのだけど、あくまで僕自身の内省と、自らの戒めのための思考だと思って読んでいただきたい。

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よその正義をインストールして失うもの

どことなく、目指すべきもの、優れていると感じているものが、自らの文化とか生活とか性向に根差したものでなく、漠然とした西洋的なものへの憧れに根差したものである、という感覚があります。

例えばもし僕にすごくお金があって、まちをまるごとデザインできる権限があったら、どこか外国の小都市のような景観の地域を作るのではないだろうか、という気がします。

それが悪いとは思わないし、実際、自分のまちが北欧の小都市のような地域になったら素敵だなと思います。

機能的で、暖かみがあって、デザインが洗練されていて、統一感があって。

きっと暖炉を備えて、薪割り用の斧も買って、ジビエ料理を好むようになるのだろう。雪がもっと映える街並みになるだろう。喜んで住むし、自分の人生に満足すると思う。もっと積極的に移住を勧めるようなことを書くかもしれない。

だけど、そういう正義をインストールして、失うものというか、覆い隠されてしまうものについて、意識的であり自覚的であることもまた必要なのではないか。

というか、そういう陰翳の余地のことを考えることを、僕らは大事にしなければならないのではないか、と思うのです。

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オリジナルの審美眼が損なわれ、自分の肌に合うモノや自分の心に寄り添うものの価値が分からなくなってしまう

どうしても抽象的な話になってしまいます。もっともっと具体的にあからさまに僕が懸念していることを書くとすれば、正解を疑わないまま突き進んでしまう怖さです。その挙句、陰翳のことを忘れてしまうのが怖い、というか。

僕らはもっとも優れているものとか、良いとされているものを肌感覚で察することができます。

僕らとくに努力しなくても、世の中で良いとされているものを良いと感じることができますよね。そりゃ何もかもじゃないけど、漠然と流行ってるものは不思議と「ちょうど自分も良いと思ってたもの」だったりしませんか。

反対に、今まで身に馴染んでいたものが急に古臭く感じたり、時代遅れに感じたりすることもあるのでは。そう思っていたら案の定廃れていったりして。

この、最先端に惹かれ続けることについてかねてから不思議に思っていたのだけど、これはどう考えても自分のセンスが先端を行っているからではなく、アンテナが敏感なわけでもなく、何かにそう思わされているだけ、だと思うのです。

考えてみれば、アンテナに敏感どころか、あまりこだわりのないことほど無意識に流行を取りいれてしまうものではないでしょうか。世間が何となく良いとするものを何の抵抗もなく受け入れてしまうのは、偏に不勉強で、関心が低いからこそだと思う。流行とはそういう人たちが一斉に動くからこそ流行になるんだろう。

で、僕が怖いって言ってるのは、流行に乗っていることを自覚せず、盲目的に世の中が是とするものを信じて受け入れてしまった挙句、オリジナルの審美眼が損なわれ、自分の肌に合うモノや自分の心に寄り添うものの価値が分からなくなってしまうことです。

谷崎潤一郎はこれを「陰翳」という言葉に込めたのではないか。

良いまちを作りたいのではなくて、オリジナルなまちを守りたい

僕は自分の町をたくさんの人に好かれ、現代人に憧れられるセンスの良い町にしたいわけではありません。いやそうなったらもちろん嬉しいけど、現代の人が漠然と求める良さに迎合してリデザインされたまち、借り物の価値観をインストールしたモデルハウス的まちになったら嫌だなあと思う。

僕が頭をひねったり何かを志したりする意味はまったくなくなるからという意味でもあるけれど、世の中の人が好きでも、僕が好きなまちはなくなるかもしれない、という懸念は今からしておいて良い。

僕は良いまちを作りたいのではなくて、オリジナルなまちを守りたいのです。

もちろん、自分が大事にしているところを大事にしながら、新しい物を受け入れたり、合理的な選択をすることはとても大事だと思います。無暗に古いものが良いと言ってるのも馬鹿みたいだし、こだわるだけこだわって誰からも好かれないのも馬鹿らしい。だからバランス。

それで思い出してほしいんだけど、僕ら、こだわりがないものほど盲目的に新しいものとか、漠然と世間が是とするものを受け入れる。これは僕の思い込みかもしれないけど、とにかくそういう傾向があると考えてる。

その上で、町だって廃れるのは極端なことを言ったらそういうことだと思う。先端じゃなくて、便利じゃなくて、何となく古くさく感じて、廃れていくのだと思う。

生き方とか働き方とか住まう場所も流行に過ぎず、地域を盛り上げたいとか移住者を増やしたいとか考えたら「こだわりの無い人」に向けてどっかから価値観をインストールして実装することになるんじゃないだろうか。

それも一つの正義に違いはないけれど、谷崎が『陰翳礼讃』で嘆くように、もっと自分たちが好んだものとか馴染んだものを磨いていけば、そういうオリジナルの美を指針としたような独自の発展を遂げる、なんてこともあるんじゃないか、と思うのです。

いや、そういうことをちょっと頑固に考えないと、「この町、なんか海外っぽくて素敵」って人は増えて僕ら日本人は喜ぶけど、海外の人が日本に来たときになんかどこもかしこも普通だよね、イメージしてた日本と違うな、まあ後追い先進国だよねって言われる恐れがあって、わざわざ日本行く意味なくない?京都だけで良くない?みたいに言われそうで、それはつまらないよな、と思うのです。

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