ふと思い出したことがありました。
幼い頃、じいちゃん家に泊まるときは、じいちゃんとばあちゃんの寝室で一緒に僕は寝て、そう言えば二人は、いつも部屋の電気を消して、テレビを見ながら寝ていたのだ、ということ。
幼く、自分の部屋にテレビなんておいてない僕にとってその空間にはほんのり背徳感があり、つけっぱなしの夜のテレビは面白かった。
内容なんか覚えてないけど、夜中に、寝るときに、テレビがついているという事実と、僕らは寝ているのに、テレビの中では誰かこっかが楽しげに話してるというちぐはぐ感に、言いようのない安心を感じていました。
「大人になったら絶対、寝る部屋にテレビを置いて、つけっぱなしにして寝るんだ」って思ってました。僕の夢の一つでした。
大人になった今、結婚して、じいちゃんとばあちゃんと同じように大きなベッドで妻と二人並んで寝ています。テレビも置いてあります。
だけど僕ら、滅多にテレビを見ない。もちろん付けっぱなしにして寝たりもしない。
夢をかなえられるときにはその夢に興味がなくなっているかもしれない
夢を叶えられるときには、その夢に興味がなくなっていたりすることがあります。
だから叶えたいと思った夢があるなら、やっぱり「今」叶える必要があると思う。
夢を叶える努力は今しなければならないと思う。
「寝室にテレビを置いて、夜つけっぱなしにして寝る」なんて、夢と言われたら笑われてしまうことかもしれないけど、僕の夢の一つ、少なくとも理想の一つでした。
そしてそれが難なく叶えられるようになった今、僕はその夢に興味をなくしています。
テレビがつまらなくなったからでしょうか。
それもあるのかもしれないけど、じいちゃんとばあちゃんの寝室で見たテレビだって別に面白いわけじゃなかった。
テレビを見ながら寝るってこと、一緒にテレビを見てるってことが楽しかった。
これをいつか自分の力で再現したいと確かに思ったんです。
でも興味がない。電気代ももったいない。目も悪くなる。
興味がないどころか、「やめた方が良い」とすら思ってる。
夢の鮮度の話
夢の鮮度の話です。
鮮度落ちてしまったな…と感じた夢が、僕の場合「寝室でテレビをつけっぱなしにして寝ること」でした。
夢は今叶えろ、理想は今達成しろと言えば暑苦しいのであまり言いたくないんですけど、やりたいときにしか鮮やかに見えないものってけっこうあるというのは事実だと思うんですね。
書いてて思ったけど、別に僕は夢に対しての確固とした意見は、これといって持っていないような。
夢は大きい方が良いとも思ってないし、小さい夢でもコツコツ叶えていけば素敵、とも思ってない。
夢は持ってなきゃいけないとも思わないし、夢がないからどうこうとも思わない。
そう感じるのはなぜかという話をするために、最後に「夢」という漢字はどんな意味なのかを書きます。
「夢」という漢字の意味
夢という漢字は好きです。
手元にノートかメモ帳でもあったら、大きく「夢」と書いてみてほしい。
この漢字はひたすら「目がよく見えない」という意味なんだって。
夢の部首は「草冠」ではなく「夕」です。夜の意味です。その上に蓋があって、その上に目(を倒したやつ)があります。
この形、「夜の闇に覆われて目がよく見えない」という意味になります。
では草冠の方は何なんだって話になるんだけど、これは「逆さまつ毛」らしい。
つまり、「目にまつげが入って爛れてしまったのでよく見えない」という意味になる。
「よく見えない」が重なって、「夢」という漢字はできているのですね。
僕はこの「夢」という漢字の意味を、何かの辞書で見たんだけど、この思ってたより身も蓋もないっていうか、思ってたよりろくでもないというところ好きなので、「夢」を過大評価するのも過小評価することもしなくなりました。
夢はただぼんやり見えてるか見えてないかくらいの「何か」もしくは「こちらの状態」で、手に取ってみたら思ってたんと違うこともあるし、ぼんやり光ってるのを見ているうちが一番輝いて見えたし幸せだったということもあるだろう。
手に取ってみると想像通り素晴らしいということもあるかもしれないけれど、それはそれでなんかただのお買いものみたいだなぁって興ざめだったりして、こう考えていくと夢を見ること自体が不毛という感じもするけど、それもまあ別に良いですよね。
ああでもなんか、じいちゃんとばあちゃんの寝室で、夜中、目をつぶっても薄い瞼を越え目の中に入り込んでくるテレビの光は、まさに夢の光そのものだったなと、少しセンチメンタルな気持ちになる。
じいちゃんとばあちゃんと一緒に『ゼロ・グラビティ』見たときの話しも書いてました。
このときも夢のように幸せだった。
コメント
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