老人ケアのための観察を「見守り」と表現するらしい。最近知りました。
僕は最近ようやっと「介護」という事柄が自分事になってきたところで、育児にもその類の言葉があるように、介護にも特有の語彙があるということに気付いてきました。
僕の場合、87歳の祖母とは近居状態にあり、日々何となくサポートしたりしなかったりしているんだけど、その行為が「見守り」というものに属するのだと気づいたときから、介護を強く意識しました。
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見守り文化と監視文化
介護問題を考えると、リソースの不足故に、20年後には今よりもっと深刻化し瀰漫(びまん)するに違いない、みたいな話をここ何日かは書いています。
特に人的リソースの不足を解消する方法はないと思うのだけど、そんなことを言っていられないのも現実。
七面倒くさいことを言えば、そういう未来に備えて新しい文化を醸造していく必要があると思います。
新しい文化とは、見守り文化です。
見守り文化、作れるか?
まず監視文化から抜け出す必要があるのではないか?というのがこの文の趣旨です。
マントルケアとは
見守り文化と言ってしまえば、なんだそんなこと、と思われるかもしれませんが、この文化を醸成するのは言うほど簡単ではないと思います。
なぜ簡単ではないかという話をする前に、僕が最近知った言葉に「マントルケア」というものがあるので少し説明に割きます。
これは家族、近隣住民、友人等が老人を見守り、介護に介入するというものです。
制度としての名前なのか、文化としての名前なのか、僕にははっきり分からないけれど、おそらく僕が必要を感じているのはこの「マントルケア」という、地域レベルでの介護への携わり、ということになるでしょう。
マントルケアとは文化なのか制度なのか。いずれにせよ醸成には時間がかかる
マントルケアという言葉を持ち出せば、これがいかに難しいのかは分かると思います。
この言葉の生みの親であり、介護先進国とされる(そう僕は認識している)オランダでも、長い時間をかけて市民が地域の老人を見守る文化を醸成してきたようです。
制度としての名前なのか、文化としての名前なのか分からないと言いましたが、これは国策であり、同時に国民が意識して作り上げた文化でもあるのでしょう。
言うほど簡単じゃない。国と人の意識を変えなければならないことだと思いますから。
マントルケアとお金 制度改革にかけるお金事情
上記のページによると、オランダの高齢者ケアに充てたれる保険は
・特別医療保険(日本の介護保険に当たる)
・医療保険(日本の医療保険に当たる)
・個別ケア予算(上記の保険対象から外れる領域が対象)
という柱があることがわかります。
個別ケア予算というのは、一種の現金給付サービスに充てられるお金のことのようですが、これにより被保険者がサービスを能動的に選ぶことができるという仕組みらしいです。
とりあえず現金渡すから、自分が必要なサービスを自分で選んでね、ということでしょうか。上記の文章では「給付サービスを選んで購入することができる」と書いてありますが、これは介護サービスのことでしょうか。ちょっと混乱。
余談ですがマントルケアにかかるお金のよく分からないところ
この個別ケア予算のうち3割がマントルケアに充てられている(2006年のことなのでけっこう昔ですね)、とも書かれていました。
マントルケアは地域住民や家族がボランティアで老人、要介護者を見守る制度もしくは文化ということなのですが、ここに予算を使うというのも僕にははっきりわかりません。
マントルケアに参加するという意思表示が必要で、それらの人が所属する非営利団体のようなところがあり、そこの運営費に充てられているということなのか、ボランティアとは言えお金はかかるので、例えば代わりにお買い物へ行ってもらうなどしたとき、適宜、実費の支払いを個人的に行うということなのか。
ちょっとこのへんよく分からないのでわかる人いたら教えてください。
さて、この三番目の個別ケア予算の導入を介して、介護を国から地方へ、施設から住宅への架け橋として機能させたという背景があるようです。
マントルケアは善意と良心だけでは達成できない
マントルケアは国策であり文化。
「ボランティアで地域老人、要介護者を見守る」と言えば、まあ理想的なので素晴らしいように聞こえるかもしれませんが、国が介入しこの制度を推し進めることで、それも長い時間をかけてやっとこの文化は培われるのでしょう。
善意とかやりがいとかに依存してできることじゃないことは間違いありません。
やろうと思って一朝一夕でできることじゃないんだから、20年後に備えて今からこの意識をもっていなければならないと思う、というのが僕の主張です。
でも、難しいですよね。見守り文化と言えば口当たりは良いですが、実際、「監視文化」と言った方が日本に即していると思う。
やっとこの記事の本論です
監視文化を突き抜けて見守り文化を作る必要
マントルケアのような制度、もしくは文化が行き渡れば10年後、20年後もちょっとは安心かもね、とは思いますが、この実現には住民の意思だけでなく、国策としての牽引も必要だと思います。
何が難しいと思っているかというと、マントルケアのような文化、もしくは制度の導入は0から1を生み出す行為ではなく、マイナス5くらいから1を生み出すようなことだと思うからです。
マイナス5というのは何なのかというと、すでにあると感じる「監視文化」のことです。
美徳として備わっている「人に迷惑をかけない」という僕らが根強く持っている思想が、ここに来て足を引っ張っている。
いやどの国だって人に迷惑をかけても良いとは思っていないのだろうけど、日本は特にその思想が強いのではないかと思います。
老人のケアというより隠ぺい
人に迷惑をかけるわけにいかないので、例えば認知症の老人に対して思うのは、徘徊して誰かの手を煩わせたらどうしよう(もしくは認知症が露呈したらどうしよう)、とか、お買い物に行ってレジで手間取ったらどうしようとか、お医者さんと意思疎通ができなかったらどうしようとか、そういう心配の仕方になってしまいがちだと思います。
人に迷惑をかけないために事前にケアをする、というメンタリティになってしまいがち。隠ぺい体質に陥りがち。老人だけじゃなく、例えば引きこもりの息子がいて世間に顔向けできないみたいなメンタリティ。少なくとも僕の中にはそれがあると思う。
ばあちゃんのぼけぼけが誰かに迷惑をかけなければ良い、恥ずかしいことをしないでほしい。そういう気持ちが強くあって、どうしても粗は隠せないから、そんな事態に陥ったとき、沸々と怒りに似た感情が出てきてしまう。
この気持ちが、見守りというよりは監視状態を作っていて、おそらくだけど、どこも少なからずそうなんじゃないか。
施設に預けるというのは、この監督責任をサービスに頼るという意味合いがすごく大きいと思う。
一種の開き直りを今からはじめよう
地域で見守るというのは、言うなれば、僕らが持つ美徳としての監督責任から意識的に開き直って、ある程度問題を開けっぴろげにして、お互いうまく頼りあう、ということだと思う。
これが難しいと言わずして何なのか。
よく考えなくても、人に迷惑をかけるのはお互い様で、それは老人に限らず、老若男女誰しもが迷惑をかけあって生きているわけだけど、だからこそ、人に迷惑をかけないようにしよう、骨折りをさせないようにしようというのは間違いなく美徳なのですが、本当に人の手が必要なとき、ひどく僕らを追い込みます。
この意識を変えるのにはおそらく時代を超えなければならなくて、それこそ、まだ自分は介護を受けるような身ではないと考えている今の50代、60代が一種の開き直りを、そして僕らもっと下の世代は人に頼り甘えて、頼られ甘えられるスキルを培う必要があると思う。
そうでなきゃ、監視の構造から抜け出すことはできないんじゃないでしょうか。
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