町田康『告白』「すんませんでした。全部嘘でした」

好きな作品と雑談

町田康の『告白』とわざわざ作者の名前を頭にかぶせなければ湊かなえの『告白』を思い浮かべる人が多そうなのが悔しい。

告白と言えば僕の中では町田康の『告白』。

正直何を以て「告白」なのかよく分からないんだけど、きっと「すんまんせんでした。全部嘘でした」がそうなんだと思う。

作品の後半、強く衝撃を受けたけれどなぜ衝撃を受けたのか分からないセリフ。

この記事ではこのセリフについて考えたいけれど、書評記事や読書感想文は僕なかなかセンスがなくて書けないのでどうなるか分からないまま書きたい欲のままに『告白』について書いてみようと思います。

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町田康『告白』は河内十人斬りがモチーフ

『告白』は河内十人斬りをモチーフにした小説です。

少々乱暴かもしれないけれど、あらすじと言えばリンクしたウィキペディアを一読してもらえば丸分かりです。大筋は河内十人斬り。実際にあった事件。

『告白』で描かれるのは河内十人斬りであり、大筋は違わない。結果は起きた出来事の通りであって、それは例えば僕らが今日のニュースで知る事件のよう。

誰が被害にあって、犯人は誰々で、被害者と加害者はこういう関係にあって、結果凄惨な事件が生じてしまった、こわいこわいという話。

原因は交際と金銭にまつわるトラブル。あーなるほど、女絡み、金がらみは怖いねえ、というなんだかわかったような気になる話。

いやでも、日常触れるニュースでも感じるけれど、結果に至るまでの道筋は本人にしか分からないものがある。

そんなの当然だと口では言いつつ頭では理解しつつ、本当の本当のことは当事者にしか分からない筋道。

当事者にしてみればなるべくしてなったことが、無責任な野次馬から見たら結局「どうしてこうなった」としか言いようがないこと。

もしくは、第三者から見るからこそ「だから女とか金とかはちゃんとしないとダメなんだって」とかしたり顔で言いたくなるようなこともあるかもしれない。

昨日も今日もそんな言説に溢れてる。コメンテーターが何を知ってるのか。

中学校の文集や勤務態度から犯人の人間像を云々しては自分の知ってるもっとも陳腐なストーリーに当てはめて、異常と決めつけて糾弾するのを見るにつけ、僕は『告白』で描かれた木戸熊太郎のことを思い出す。

木戸熊太郎は思考と言語と行動が一致しない

思考と言語と行動が一致しない。

町田康が『告白』において木戸熊太郎に与えた性質はこういうものでした。

思弁的で、思考と言語が一致せず、思ったこと、したいことがそのまま素直に表に出てこない。

少し具体的なエピソードがあるので少し長いけど『告白』から引用させてもらいたい。

駒太郎はまず頭で早くようじょこに行きたいなあ、と思った。そして早く行きたそうな顔をした。そして言葉で、「早くようじょこに行きたい」と言った。つまり駒太郎においては、思いと言葉がひとすじに繋がっている。思いと言葉と行動が一致している。ところが俺の場合、それが一致しない。なぜ一致しないのかというと、これは最近ぼんやりと分かってきたことだが、俺が極度に思弁的、思索的だからで、つまり俺がいまこうして考えていることそれを俺は河内の百姓の言葉で現すことができない。つまり俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない。つまり思いが言葉になっていかないということで、俺が思っていること考えていることは村の人らには絶対に伝わらないと言うことだ。p106

「河内の百姓の言葉で現すことができない」という感覚が僕には分かる気がしました。

「河内の百姓の言葉」を別のものに言い換えて「この町の人たちの言葉」とか「○○家の言葉」とか、「このサークルのメンバーの言葉」とか、もっと単純に「子どもの言葉」と言っても良いと思う。

僕らには普段使っている言葉(つまり思想)の塊というものがあって、それは「語彙」と言って、言葉は共通しているようだけど語彙が違う、ということがある。

普段思考するときに使う言葉が違い、伴って発する言葉も違い、行動も異なる。

僕らは良くも悪くも言葉によっていろいろなことを認識しており、だからこそ言葉が食い違えば結果が食い違うことがある。

 

思ったことが言葉にならぬから言葉でのやり取りの結果としての行動はそもそも企図したものではなく、思いからすればとんでもない脇道だし、或いは、言葉の代替物、口で言えぬ代わりに行動で示した場合、そもそもその言おうとしていること自体が二重三重に屈曲した内容なので、行動も他から見れば、鉄瓶の上に草履を置くとか、飯茶碗を両手に持って苦しげな踊りを踊るといった訳の分からぬこととなって、日本語を英語に翻訳したのをフランス語に翻訳したのをスワヒリ語に翻訳したのを京都弁に翻訳したみたいなことになって、ますます本来の思いからかけ離れていくのだ。p107

この感覚だって、思い当たるフシが全くないという人はいないと思う。

小さい頃、親に不思議がられたことがみんなあるはずです。自分の中ではきちんとした筋道があるのに、他人から見たらどうして、と思われるようなことを、きっと誰もがやっている。

分かってもらえないことにもやもやした気分になって、少しずつ親の言葉と、親の言葉が作る世界を学習しては自分の認識の方を矯正していく、という作業をしたはず。

木戸熊太郎は頭でっかちの自意識過剰と断じて良いのか

思弁的で、言葉と行動が一致しないが故に木戸熊太郎は世間と食い違い続ける。

傍から見たらよくあることのようにも見える。

もしかしたらこれがよくあることなのは、現代の(もしくは近代以降の)傾向なのかもしれません。

思索的、思弁的。この世に思索と思弁は溢れる。

ブログを読めば、ツイッターを開けば、人々は日々ああでもないこうでもないと考えては堂々巡りを展開し、気持ち、言葉、動きが一致しない生き方をしている。

言ってることとやってることが違うなんてよくあること。

真心から言った言葉を行動によって覆さなければならない場面はたくさんあって、それがなぜか分からなかったりして、自分は一体なんなんだ?本当に自分は何を考えているんだ?という気分になる。

僕らはシンプルにナチュラルに生きていきたいけれど同時に自分たちの複雑も理解していて、アンビバレントな感情や、自家撞着の言動を日々もてあましている。

こういうの、ときに「頭でっかち」とか「自意識過剰」と断罪されることかもしれない。

思春期の頃、就職に悩む頃、転職の頃。僕らはいつも考えすぎて身体が動かなかったり、過剰に自分というキャラクターを見つめてしまったりする。

木戸熊太郎ももしかしたら、今のこの時代に生きていたらもっと楽に生きられたのかもしれないと思う。

思索が溢れ、思弁を好むのであれば、僕がこうしているようにブログにでも書いておけば誰かが読んで、理解してくれるかもしれない。

そんなツールも環境も与えられていない明治の時代。自我や自意識というものを詳細に表す言語を操る人は少ない時代。簡単に言えばまだ近代化していない時代。

ナチュラルに自分というものを疑わず日々を生きている人に囲まれて、自分がおかしいのではないかという疑念と戦いながら過ごすのは辛い、という点で同情できる。

 

森の子鬼と葛城ドール『告白』で熊太郎を苛む異形は何だったのか

思考と言動が一致しない熊太郎が身を滅ぼすまでに至った要因として、『告白』では「ある異形」を用意しています。

森の子鬼(葛城モヘア)と葛城ドールという兄弟で、彼らが木戸熊太郎を苛み続ける。

森の子鬼と名乗る不気味な子どもが、熊太郎たちの相撲に急に参戦してきて自信満々に挑発する。

熊太郎は森の子鬼の不気味さに慄きながら相撲の勝負を受け、簡単に勝利するが森の子鬼の腕を折ってしまう。

例えばこの一点に熊太郎は苛まれ続ける。金をせびられたらどうしよう、というような脅迫観念に苦しむ。

ある日森の子鬼と再開した熊太郎。森の子鬼は兄と一緒にいる。

この兄が葛城ドールという。顔が異様に大きく、弟モヘアの腕を折った熊太郎を古墳に連れ込み脅しに脅す。

熊太郎が追い込まれ反撃をすると、葛城ドールは手応えを全く感じないほどに弱く、巨大な頭はぐずぐずに破れあっさり殺害してしまう。

この経験があるから、熊太郎は半ば自棄になってしまう。

ことあるごとに、自分の人生はどうせ知れている、あの古墳で起きたことが明るみに出たらどうせ終わりで、その終わりは近いうちにやってくるという妄念に囚われて、まともに生きることをしなくなってしまう。

ところが、森の子鬼の存在や葛城ドールのことに関して、熊太郎と当時一緒にいた友人たちとで意見が食い違っている。

読者にも、結局彼らがなんだったのか分からないまま物語は終わる。

あの異形は何だったのか、と少し考えれば、「虚勢」と「見栄」の権化であり、「頭でっかち」の権化であったように思う。

言うなれば、熊太郎が今後一生囚われることになり、身を滅ぼす原因にすらなる、自分自身が戦わなければならない自分自身の悪癖のようなもの。

少々安易な発想かもしれないけれど、正体がうやむやで終わるのに物語の大きなキーとなる森の子鬼と葛城ドールの存在は、それに近いものなような気がする。

言うなればあの異形は便宜だった。

熊太郎の運命の「どうしてこうなった」を僕らに説明するのに、確実にあるけれど普通は目に見えない「それ」を可視化したものだった。

証拠に、森の子鬼と葛城ドールが僕ら読者には見えるからこそ、熊太郎はダメだけど、決して同情できない人間ではないし、ましてや嫌ったり恐れたりするような対象ではなくなる程度には、彼の行動原理が理解できるようになっている。

むしろ様々な場面で熊太郎を応援したくなり、熊太郎に降りかかる災難を運ぶ村の住人を、熊太郎と一緒になって恨んだりもできる。

 

すんませんでした。全部嘘でした

どうしようもないことを繰り返して、取り返しのつかないようなことまでやって(河内十人斬り)、一緒にいてくれた舎弟の弥五郎まで撃ってしまって、いよいよ自決するところまで来て、「すんませんでした。全部嘘でした」と熊太郎は言う。

このセリフの辛さが分かるような気がする、というか、その切実な独白に触れて改めて「どうしてこうなったんかなあ」って思う。

熊太郎と同調した立場でそう思って、割と本気で分からなくなる。

熊太郎はまだ本当のことが言えてない気がすると言って自分の心の中にある本当のことを探ったけれど、そこには何もなかった。

「あかんかった」と吐いて自決する最期は痛ましく、置いていかれてしまったような心地がする。

僕らは(こんなブログ記事を万が一ここまで読んだ人がいればなおさら)、おそらく熊太郎程度には思弁的な人間だと思うから、熊太郎の言ってることが、断片的にでも分かると思う。

分かる気がする、という程度の理解かもしれないけれど、自分を顧みても、全部嘘でした、って言いたくなることがある。

嘘なんか一回もついてない。ずっと正直に、しかもすごく考えて発言してきたはずなんだけど、結果的に何も伝えられなかった、という絶望的な感覚を持つことがある。

本当のことを、他人の言葉で言おうとすればするほど自分とかけ離れていくという感覚。

それが熊太郎のように取り返しのつかなくなる事態を招くとは思わないけれど、見ようによってはもうすでに取り返しのつかない状態になっているのではないかと思うことがある。

あれ、僕の人生もしかして詰んでない?みたいな風に。

 

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