まちづくりとクリエイティブ

まちづくりはクリエイティブな営み。

まち「づくり」っていうくらいだからそらクリエイティブやろって思うだろうけど、最近改めて「クリエイティブ」を意識しなければなと思ったのでメモします。

というか、クリエイティブであるということはどういうことか?をよく考えなければならないなと思ったのでその辺の話です。

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まちのコンテンツは枠組みの中の何かになってしまう

きっかけは、雑誌の取材を受けたことでした。

ここのところ立て続けに取材を受けました。

「Ho(ほ)」と「northern style スロウ」の取材でした。

 

上の画像が「HO(ほ)」vol.141で、下が「スロウ」vol.60の記事です。機会があったら手に取ってみてくださいませ。

「HO(ほ)」では「小さな宿へ」という特集の中で僕が自宅で運営している民泊「随-まにま-」とコミュニティスペース「旧佐藤医院」を紹介してくださいました。

「スロウ」では「継ぎたいものは何ですか?」という特集の中で、かつて地域の病院だった「旧佐藤医院」をコミュニティスペースとして活用するようになった経緯や、これからどのような場所になっていきたいかなどを扱っていただきました。

雑誌の取材なので当たり前と言えば当たり前なのですが、雑誌が用意した枠組み、特集、の中の一つとなります。

取材していただけたことは本当に光栄です。記事にしていただけるほど知られ始めてきたのかなと思うと込み上げる嬉しさがありました。

一方で、となり合う記事はいずれもユニークだったり美しかったり強い思いが籠っていたりして、素敵なところばかり、という事実を目の当たりにして、「この枠組みに収まらないことをしなければな」という気持ちにもなりました。

「枠」を前提に知られることで、ワンオブゼムになりやすくなる

少々熱いことを言わせてもらえれば、「既に用意された枠組みに収まって満足していてはいけない」と思ったのです。

抜きんでたい、とか目立ちたいという気持ちとはちょっと違うような気がします。まわりと比べて、というわけではなく、ただただユニークになるための努力のようなことをしたい気持ちです。

枠組みの中の一つになるということは、大枠がまず了解されていて、その中の一つになるということ。それはそれで分かりやすいという長所があるけれど、理解しやすい「枠」を前提に知られることで、ワンオブゼムになりやすくなる。

有体に言えば底が知れるとか、天井が見える、ということになるのではないかという危機感を抱きました。

引いては、分かりにくいことをしなくなるとか、多勢が分かりやすいように自分から枠に収まりに行くようになるような気がしました。

だからこそ、意識的に枠を取り除くというか無視をする勇気が必要になると思ったのですが、この点が「クリエイティブ」なのではないかと感じるのです。

唯一性とか絶対性を説明する言葉は必ずある

「枠を取り払う」とか「常識を疑う」と言った類の文言がすでに手垢に塗れていて、こういう言葉で「クリエイティブ」を伝えようとすることそのものが全然クリエイティブじゃないです。

言うなれば、言葉は枠です。言葉にしたモノや概念は分かりやすく人の了解できる形を持っているから使いやすいけれど、いつもその言葉を越えた部分について考えなければならないと思う。

僕が文章を書く人間だからということもあるけれど、それは「まちづくり」も同じで、この文脈なら伝わると思うけれど、「まちづくり」という言葉で自分のやっていること、考えていることを説明するのもいい加減にしなければならない。

少なくとも自分や、自分の町は唯一無二のユニークなものだとみんな思ってるはずで、今はなくともその唯一性とか絶対性を説明する言葉は必ずあるはずだから、そのあたりを模索する勇気。もしくは人に模索させる勇気。

それがクリエイティブだと思う。

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