アンチコメや酷評レビューをする人はバランス感覚を重視する人なのかもしれない

コミュニティ・メカニズム

いちゃもんに近いアンチコメが突然送られて来るなんてことは、何らかの発信をする立場にいれば多かれ少なかれ経験するものだと思う。

もしくは、話題の書籍をAmazonで買おうとしたら、星5つと同じくらいのテンションで星1つ評価のクソみそ酷評レビューが載ってたりするのほ発見することもあるでしょう。

なんでこんな酷いことを言うのだろう。

そこまで言わなくても。

わざわざこんなことを書くために労力や時間を費やすのか?

第一印象でそんなことを考える。

その物言いが自分に向けられたときは少なからずショックを受ける。

ただ僕がここで考えたいのは、そういうコメントや酷評を放つ人間はよく言われるようにそういうことに楽しみを見出すような、性格の悪いヒマ人なのか。

人の悪いところ見つけてあげつらって優位に立とうとするような人間に決まってるのか、というところ。

というのも、僕はわりとアンチコメを放つ人や、酷評レビューをする人の気持ちが分かるのです。

僕はどんな場面でもサイレント読者・視聴者だから、実際にアンチコメを打ったりすることはない(賞賛コメもしない)んだけど、言いたくなる気持ちは分かるな、っていう場面ってけっこうある。

では僕の性格もなかなかに悪いということか。確かに、完全に良いとは言えないです。

正直人の失敗や欠点をあげつらうことに快感を覚えたことはないか?と言われれば、否定できない。否定できないどころか、積極的に肯定できさえする。人の悪口を言うのは楽しい!と言い切っても良いです。

そりゃ倫理的に、もしくは損得勘定で考えたとき、つまり理性で判断すれば、悪口の類は言わない方が良いことは分かります。

だから大人になるにつれて人の悪口は言わなくなる。悪口言って良いことないって知ってるから。

しかしこれまでの人生、何度人の悪口で友達と盛り上がったことか。自分のことを棚に上げ、どれだけ多くの人をバカにしてきたことか。

理性が高まり、身の程を知り、利害関係の微妙な揺らぎに敏感になるに連れ、迂闊に人の欠点を笑うことはなくなったけれど、それはあくまで学習の結果であり、根本的に他人を貶めることで自分の優位を感じて喜ぶ気持ちというのは存在する。少なくとも僕の中には。

でもみんなある程度そうだと思う。

政治家や芸能人のスキャンダルに求めるのは、利害の及ばない悪口の対象でしょう。そういうものに需要があるんだろう。

テレビ越しであれば、どれだけ悪しざまに他人を罵っても、礼を欠いた分析をしても、まったく自分に影響がない。そのしっぺ返しが来ることはない。

地の利がまず有利で、その上、ほとんどが悪や不正や不倫と言った、一応世の中で間違いと認められている出来事が相手であるから、自らの優位性はほとんど揺らぐことがない。

ワイドショーの類は、一般的な人間の安定剤として働いていると思う。

そう考えると、ネット上に上がっているもの、ネット上で活動する人間というのは恰好の感情のはけ口だと思う。

まず、攻撃を受けやすい立場にいるということは前提として認めた上で、じゃあだからって迷わず攻撃する人はやっぱり性格が悪いのか、ヒマなのか、自分の人生が満たされていなかったりするのか、ということを考えたい。

おそらくの話なんだけど、そういうコメントやレビューをする人と仮に実際に会ったとしたら、けっこう普通の人なんでしょう。

多分普通に友達にもなれるくらい普通の人だと思う。

良くも悪くも平凡で、むしろ大方より頭が良いと感じるような人かもしれないとすら思う。

そんな普通の人が(普通の人だと仮定して)、わざわざアンチコメや酷評レビューを打ち込むのには、どんな因果があるのだろう。

もちろん、事情は様々だと思います。個別に見て行けば、ごく個人的な話になるに違いない。

人を貶めたいとか傷つけたいという性質がある場合もあるだろうし、良いも悪いも考えておらず、単純に趣味であるという場合もある。また、純然たる正義感で打ち込んだ意見が、傍からみるとアンチコメ認定されるという場合もあると思う。

これら個別的な事情を考えているとキリがないので、ざっくり人間社会という大きなコミュニティとして俯瞰すれば、きっと僕らにあるのは個人的な意見に加えて、バランス感覚なのだろうと思う。

世の中には、バランスを重視する人がいるように思います。

僕ら人間は社会的な動物だと言われますが、誰しも少なからず、コミュニティ意識というものを持っているのではないかと思うのです。

コミュニティ意識というのは、確固たる個人としての自分という認識とは別に、全体の中の自分という意識があるということ。

そういうとき、自分が個人的に持っている脳みそとは違う脳みそが働いて、その脳みそに従って行動を起こすことがあるのではないか。

つまり、「名前のある私」としては抱かない感想や起こさない行動を、匿名の状態では抱き、起こすことが誰にでもある。行動を起こさない、黙る、傍観するというのもアクションのうちとして。

あ、言わなくても伝わると思うけど、これは学問的な見地に基づいた考察なんかではなく、ただの趣味的な、手遊びみたいな、妄想ゲームみたいな感じの考えです。

コミュニティ意識が強い人と弱い人がいて、かつ、匿名状態で行動力が高まる人と低くなる人がいるという仮説、というほどでもない、妄想です(とは言えもうとっくに研究されてることなのかも、ともちょっと思う)。

そういう前提で考えれば、匿名状態でアンチコメや容赦のない酷評をする人のパーソナリティを責めるのもあまり正当とは言えないのではないかなと思うのです。だってその人がコメントから受ける印象通りの人間なのかと言えば、たぶん違うから。

よく思います。マイナスの印象を抱くコメントに反撃して、こういうこと言う人はヒマだとか、卑怯だとか、満たされてないからこんなことするとか、そういう、悪意(に見えるもの)に負けないようにするための方便こそ、謂れのないことなんじゃないか。

そういう言いかえしができる人は、「名前のある私」として反撃ができるタイプの人で、むしろ実際に近くにいて怖いのはこっちだったりするんじゃないか。

コミュニティ意識が強く、かつ匿名の状態で行動力を発揮する人は、例えば賞賛で塗れた何かに対し、あくまで匿名という状態を維持した状態でなら、辛辣なコメントを打ってしまうこともあるのではないか。

そういう性質に対して、人間性で片づけるのには少し違和感がある。

また、少し話がズレるかもだけど、そういうコメントの裏にあるのはおそらく恐怖心だと思う。全体が一致してしまう恐怖心。

最初の方で、僕もアンチコメや酷評を打つ気持ちが分かることがある、というようなことを書いたけど、僕がそういうコメントを見て安心する背景には、やっぱり恐怖心がある気がする。

ということは、あくまで持論を前提に考えればだけど、僕もコミュニティ意識が比較的強い人間なのだと思う。自分の意見より、全体のバランスの方が気になってしまう、というような。

身近なところで心当たりがあるとすれば、「みんなそれにするなら俺こっちにする」みたいな言動を僕はしがちです。無理してそうなんじゃなくて、みんな一緒になるのがなんか嫌で、怖い。

ここから分かることは、僕はむしろ匿名じゃない状態の方が自分から行動に出やすいということ。反対に言えば、匿名の状態ではなかなか行動を起こせないタイプの人間なんだと思う。

秤の傾きは気になるけれど、名指しで求められでもしない限り、必要に迫られない限り、自らの手で分銅を乗せようとは思わないというタイプ。

きっとこういう人は多い。一番ありふれたタイプかもしれません。たぶんこのブログをここまで読み進めるような人は特にその確率が高いと思う(根拠はないけどある程度気は合うだろうから)。

こういう風に考えれば、やはりアンチコメはただのアンチコメじゃない可能性が出てくるし、酷評はただの酷評じゃない可能性が出てくる。

よくそんなにひどいこと言えるな、よくここまで他人を貶めることに時間と労力を費やせるなというような文章の背後には、恐怖心、もしくは嫌悪感の大きさを感じるのです。

そして人間社会という大きなコミュニティの視野で見たとき、そういう感情は絶対に必要。

そしてそういう恐怖心や嫌悪感から来る声が、「正しさ」によってヒマ人だとか心が貧しいとかそういう風に断罪されてしまいがちなのもまた怖い。

 

アンチコメや酷評レビューをする人はバランス感覚を重視する人なのかもしれない(完)

コメント

  1. 匿名 より:

    あなたは何が言いたいのわからん

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