宮部みゆきが苦手だった

好きな作品と雑談

宮部みゆきの小説が苦手でした。

余計な感傷を排した精緻な情景描写、嘘くさくもなければ無駄でもない会話、キャラクタナイズされすぎない人物。

平坦な歩調で語られる物語に、天気が変わるように不意に、それでいて自然に訪れる事件。不意に雨が降れば駆け出すように、事件が起きれば文章を追う目が走る。

一言で言えば「生々しい」表現。

生々しいと言えば「過度にグロテスク」な描写を想像する人もいるかもしれないけれど、ここで言う生々しいというのは、「普通に生きている」ということです。

宮部みゆきは僕らが日常で触れる人、景色、物の中に「嘘」を盛り込む名人であって、僕らが作り話に求めるファンタジー性(偶然やキャラクター)を良い塩梅で差し出す達人で、何より物語を愛する人なのだと思う。

認めざるを得ない。日本が誇る小説家の一人だと思う。

だがしかし、つまんない、と10代の頃の僕は思うともなく思いながら、宮部みゆき作品を読みました。

苦手だと言いつつ数作品は読んだし宮部みゆき編のアンソロジーを探して読んでた時期もあるんだから我ながらツンデレだなと思うけど、苦手意識があるのは本当のこと。

その物語が生々しいからこそ僕はただ「他人」のことを見ているだけな気持ちになったのです。知らないおじさんの話、知らないおばさんの話。そんな印象でした。

物語において必要な主人公への自己投影ができず、登場人物に親しみを抱くには人生経験が足りなかった。

ありていに言えば、僕は自分の小さく頼りない想像力が羽ばたく余地を与えてくれない宮部みゆきの文章に、思春期らしい反発を覚えていたのです。

中高の頃の僕は生々しい人間の話にはあまり興味がありませんでした。

海外の作品であればそれだけでリアリティがあまり感じられなかったので好きだったし、星新一のショートショートのようにN氏なんて風に出て来る作品が好きでした。

僕が求めていたのは匿名性だった。

自分にも他人にも現実にもそれほど興味はなく、本には漠然とした虚構を求めていた僕は、宮部みゆきの本を読むたび、なぜ現実の延長みたいな、こんな退屈で興味のないものを読まなければならないのかと思っていたのです。

 

それでも宮部みゆきをまったく無視するということはなかったのは不思議だと思います。

たまたま自宅の本棚に何作か著作があったというのも大きいと思うし、小説は読んでなくても映画を見たりすることはあった。

好きの反対は嫌いではなく無関心であるというようなことを聞いたことがあるけれど、この件はまさにそれを表していると思う。

好きな作家がいるように、苦手な作家というのは多分誰にでもいると思います。

その中でも特に関心が持てず、仮に読み始めてもどうしても最後まで読めず、手に取ることすらなくなる作家というのがいると思う。自分の中の選択肢からゆっくりフェードアウトしていくような。これを読むことは今後おそらくない。

でも、意識的に避けたり、こうして聞かれてもいないのにわざわざ苦手だと口にしたり、新作が出るたびに表紙とあらすじを矯めつ眇めつしてしまうような作家がいる。そしてパラパラとめくると結局読んでしまったりする作家。

半端に好きな作家よりよっぽど関心を寄せている苦手な作家。

僕の場合それが宮部みゆきなのです。

 

宮部みゆきに対する苦手意識は今もなくはないけれど、そんな感情を抱えたまま、同時に憧れとか、親しみみたいな感情を持ってもいる。

こういうところも生々しい。

特に親しみを感じるようになったのは『贈る物語Terrorみんな怖い話が大好き』というアンソロジーを読んでから。

宮部みゆきが案内人となって古今東西の(というほどの数じゃないけど)ホラーを選るというもので、作品に入る前に宮部みゆきによるコメントが書いてある。

そのコメントからもう作品の好きさが伝わってきて、言い方悪くて申し訳ないけど、「宮部みゆきもただのおばさんなんだな」って思いました。

思えば、僕も怖い話は大好きなんだけど、しっかり怖い話が好きだと自覚したのは宮部みゆきのアンソロジーを読んでからかもしれません。

それまで、怖い話を見たり読んだりしてわくわくする、ぞわぞわして楽しいと思うのはちょっとおかしいのかもしれないと思っていたけれど、宮部みゆきの怖い話が好きな感じを読んで知ると、ああ、この感情は普通なのか、と思えるようになった。

ホラーファンは大勢いて、ホラーの古典というのがあって、立派な文学ジャンルの一つなんだと知ることができた。

アンソロジーの「終わりに」では、なぜ人は怖い話をするのかという題の文章まで書いてあって、最後まで面白い。

また、そのアンソロジーから宮部みゆきがかなりのゲームファンだということも知りました。

COFFEE BREAK1というページがあって、そこの冒頭はこうです。

テレビゲームはお好きですか?

私は大好き!1年のうち三六〇日は確実にコントローラーに触ってるという、もうゴリゴリのマニアであります。

その一方で、プレイしていないゲームの攻略本まで読むという、攻略本マニアでもあるんです。

分かる―!と僕は叫びました(心の中で)。

僕の初めての読書は攻略本と言っても過言ではなく、特にFF4の攻略本は文字通りボロボロになるまで読みました。

あの攻略本で覚えたのは天野悪喜孝氏のイラストと「ランダム」という言葉の意味でした。

そして僕は再び思うのです。

「宮部みゆきって普通のおばさんなんだな」

いや、普通より面白いおばさんだぞ、と。

 

それからは、宮部みゆき作品の読み方が変わりました。

と言ってもやっぱりそれほど多くの作品を読んでいるわけではないのであまり知ったことは言えないのですが、それほど精緻でも平坦でないことに気付いた。

機械的に小説を生み出すお化けなんかじゃなくて、物語に対して好みがあってこだわりがある、物語を愛し、物語に愛されたおばさんなのだと感じるようになる。

初めて書いた小説の主人公に名前を付けたとき、僕もこれから人間を書くのだと思いました。

名前をつければ愛着が湧き、愛着が湧くと足の形や髪の毛の色まで決まっていることに気付いた。

僕は他人を書くのだ。僕以外の人間を書くのだ。

そう思えば、途端に宮部みゆきの小説がお手本のようになる。

そういえば、さきほど紹介したアンソロジーの中でこんな部分があります。

物語の展開や結末には「そうだったのか!」と「そうこなくっちゃ!」の二通りがあるものだと、わたしは先輩作家から教わりました

くだらないけど僕がこれ読んだとき、「そうだったのか!」と思いました。たぶん僕が小説書こうとか思ったのもこれを読んで何となく物語を書くということが分かった気がしたから。

宮部みゆきは先輩から教わったと言っているけど、僕は宮部みゆきからこれを教わったのです。

なんの話をしたかったのか。

苦手意識があったはずの宮部みゆきなのに、気付けばすごくお世話になっていた、というお話でした。

宮部みゆきが苦手だった(完)

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