問題が適切な人数で共有できれば、その問題は解決したも同然だと思います。
問題の共有、即ち問題解決の要。
しかし、日常のほとんどの問題は、共有できないという点において問題であり続けるんじゃないか。
ではなぜ問題が共有できないかというと、それぞれ何を問題に思うかが違うからとか、たぶんそういうこと。
もちろんそれは解の違いにも繋がるわけですから、まず問題の共有をどれだけの精度で行えるかについて考えた方が良いのではないか?というのがこの記事で言いたいことです。
各問題に共有する適切な人数があるんじゃないか
そうか問題の共有ができているかどうかをまず考えるのか、と思ったとしても、具体的に何をどう考えれば良いか分からないですよね。
あくまで個人的な考えだけど、まず「人数」が考えどころだと思います。
どんな問題にも、共有するに適切な人数ってのが決まってるんじゃないだろうか、と僕は考えます。
実際、一人で悩んでいても全然解決しなかったことが、ちょっと誰かに話してみたらいとも簡単に解決できたなんてことはよくあります(このとき適切な誰かを選定することが大事ですね)。
反対に何度も議論を重ねているのに何も決まらず一向に解決しないという例もあるでしょう。
「まち」とかって規模で行う話合いはこんな風になりがちな印象。その場合は思い切って3人くらいで決めた方が良かったりするんじゃないか。もしくはワンマンか。
「まちづくり」は解けない問題
このブログでは「まちづくり」や「コミュニティ」といったテーマを軸にいろいろと考えているのですが、「問題の共有」、「問いの共有」って大事だよなって強く思います。
同時に、問題の共有、問いの共有は「まち」という規模では無理だ、とも思います。
無理というか往々にして時間の無駄になりがちじゃなかいかと。
なぜなら、「まち」という強力な媒体で何かを共有できているような気がするだけで、実は問いや問題は個々のレベルで多様であり、ときには解法や解決像を巡って衝突することすらあるからです。
これは「まち」というコミュニティのあり方を否定する考え方にもなりかねないけど、それぞれがそれぞれのキャパシティと嗜好に合った問いを、適切な人員で解決する、を繰り返す他ない、と個人的には思っています。
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