自分は何に向いているのか、自分の才能はどこにあるのかという誰もが持ったことある悩み/内田樹『街場のメディア論』の冒頭を読んで

発想と行動を記録する

内田樹著『街場のメディア論』のほんの冒頭を読み始めたばかりなんだけど、面白い話だったのでメモ。

冒頭の講義の内容は、「適性とは」なんだ、とか、「能力は開発するもの」とかそういう話です。

知りたいですよね、自分の適性。自分が向いてるものって何なんだろう、どんな仕事が適してるだろう。

実際、大学で就活時期だかにそういうテストやりますよね?僕はやらなかったと思うんだけど、おおまかにどういう性向があって、こういう職業が合いますよ的なことが分かるヤツが確かあったような。

僕がなんでそれをやらなかったのかというと、単にひねくれていたからってのもあるけど、「自分の適性くらい知ってる」っていう勘違いがあったからです。まあ、結局ひねくれるからってことですよね。

でも実際に大学を卒業して、自分でお金を稼がなきゃならなくなってから、僕は自分の適性に悩み続けることになります。全然自分の才能分かんない、自分が何に向いてるか、自分が何者なのか分かんない。

『街場のメディア論』の冒頭で展開された内田先生の話は、この辺のモヤモヤが払拭される切れ味がありました。

Contents

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能力は備わってるものじゃなくて選択的に開発するもの

結論から言えば、「能力というのは選択的に開発するもの」なのだそうです。

ちょっと引用させてもらいますね。

この「選択的」というところが味噌なんです。「あなたの中に眠っているこれこの能力を掘り起こして、開発してください」という風に仕事の方がリクエストしてくるんです。

最初からこれに適性があり、これの才能がある、ということばかりじゃなくて、実社会もしくは実生活では、必要に応じて能力を開花させ、順応していく方が正攻法。

内田先生はお子さんが生まれてからご自身に「父性愛」があることを自覚したそうです。それまではむしろ「子供嫌い」という自意識すらあったと。

「入れ歯」と「結婚」の例もとても分かりやすかった。というか聞いたことなかったけど「結婚は入れ歯と同じである」という話があるそうです。

曰く、「自分にぴったり合う」相手なり、入れ歯なりを求める人は、永遠にピッタリのそれなんて見つからない。

結婚にせよ、入れ歯にせよ、適応できる人というのは、あたえられたものを「とりあえずの与件として受け入れ、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように」自分の方を操作していくというプロセスを踏みます。

言われてみればそうかもしれません。

結婚してみて、本当にこれは日々価値観のすり合わせ、日々問題と判断の共有、日々不満の咀嚼の上にあり、同じ以上の頻度で幸福や満足や愛をすり合わせ、共有し、咀嚼することでようやく成り立つものだと思います。

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適性とか自分に合った仕事は次第に出来上がるから、人に請われたことをやれ、というが

じゃあなんでも与えられたものをとにかくやりなさい、とりあえず言われたことをやりなさい、という話なのでしょうか。

極論そういうことなんだと思いますが、でも正直それじゃ納得できないですよね。

ちょっと前に『置かれた場所で咲きなさい』って本があって話題になったことがありますが(読んでないので内容いまいち不明だけど)、それじゃ納得できない人って大勢いるはず。

だって人が人に要請する仕事って、「あまりもの」のイメージがあるじゃないですか。「言われたことなんでもやります」「行けと言われたところに行きます」じゃ体よく使われること請け合いだし、誰もやりたがらないことだけやって生涯を終えそう。

それが嫌だから、自分で自分の適性を見定めて、適切な勉強なり訓練をして、選ばれる努力をして、なりたい自分になるわけですよね。

人間が大きく変化して、その才能を発揮するのは、いつだって「他者の懇請」によってなのです

と内田先生は言います。

人はたいていの場合、「自分が本当にやりたいこと」とか、「自分の天職」なんて分からない。その点、他者の評価の方が当てにできて、誰かが「やってほしい」と言ったことはその他者的な評価に基づいた「あなたへの期待」だから、頼まれたことを頑張ってやれと。

説得力はある、納得もできる。しかし本当か?それはちょっと体育会系すぎないか?という疑念がないわけでもないです。

椅子取りゲームの時代は終わり、多くが自分の椅子を自分で作るようになった

今の時代、よりポジション取りの競争が激化していると思います。

ポジション取りと言うと、まるで椅子取りゲームのようなものを想像するかもしれません。いくつかの椅子が用意されていて、早い者勝ち、要領良いもの勝ちがその座を獲得するというような。

だけど現代は、競争して、出し抜いて、「用意された椅子」を取りに行くようなことって減りつつあるんじゃないだろうか。

もちろんそういう場面は依然としてかなり根強く存在するだろうけど、そればっかりじゃない。椅子取りゲームに負けたからって人生に負けると決まったワケじゃないし、椅子取りゲームに勝ったからって人生に勝つと決まったわけじゃないという印象。

言うなれば、オリジナルの椅子を自分で作っていく、みたいなポジション取りです。結果的に多くの人が「同じような椅子を作ってしまう」という問題はあるけれど、試行錯誤や紆余曲折を乗り越えて、自分にお尻にフィットする、自分だけが座り心地の良い椅子を作っていく。そういう思考の変化があると思う。オリジナル志向というか。人生の至る面で創造的になっているというか。

さっきの内田先生の話に納得しきれないのは、「人はわざわざ他人のために、その人がフィットする椅子を作ってあげたりしない」という感覚が僕の中にあるからです。

あげるとすれば、「これでも使って、まあ誰でもそれなりに座り心地は良いものだよ」って感じのものだと思う。オーダーメイド家具なんかじゃなくて、量販店に売ってる無難なヤツ。

 

めっちゃ分かるんです。言ってることは。というより完全に同意と言っても差し支えないくらい。

人は誰かの期待に応えること、誰かのリクエストに応えることでどんどん自分の才能を開花させる。必要に迫られることが、能力の賦活に欠かせない。それは間違いない。でもだから「人の懇請」に耳を傾け、受動的に自分という人間を作っていく。

「自分が果たすべき仕事を見出す」というのは本質的に受動的な経験なんです。そのことをどうぞまず最初にお覚え願いたいと思います

という風にこの章は結ばれています。

分かるけど、そもそもさっきの「人に頼まれるのはあまりものの仕事理論」とか「誰の期待でも良いわけじゃない」とか「競争社会のカウンター(みんな手作りの椅子を作り始めてる)はもう始まってる」とか、そういう点が物足りない。

例えば僕は小説を書きたいけど、そんなの人に頼まれることあるだろうか?音楽を作りたい人は?そういう人はあなたは音楽家よりアナウンサーに向いてるからって言われてはいそうですかってなるか?

そんなことより人はどんな小説を読みたいのか、どんな音楽を聴きたいのかが知りたくないか?

地域おこし協力隊制度の不満

例えば、僕は故郷で自分の町について、コミュニティについて、文化について、もしくは創作(創作的な人生)についてを考え続けてるけど、この、田舎というフィールドに立った上で、「地域おこし協力隊」っていう制度を不快に感じることが多いです。

町のこと、田舎のこと、地方のことに興味があるなら「地域おこし協力隊」には興味があって然るべき、と思われるかもしれないけれど、「行政に求められること」と「志を持ってくる若者」の間にギャップがあって、まあマッチせず、結局任期を終えると去っていく(しかもなんのキャリアも得られないまま)、みたいなことが繰り返されていませんか。

かなり協力隊の自主性を尊重しやりたいことを応援する地域もあれば、言われたことだけやってね型の地域もある。一概にどっちが良いかって言えない点もキモいです。

言われたことだけやってとりあえず田舎に住んでスローに暮らせるって喜ぶ人もいれば、この町でこんな仕事作って、起業して、自分の力で盛り上げたいという人もいるからです。

やる気ない同士がマッチすればよし、やる気ある同士がマッチすれば良し。しかしどちらかがズレれば一気にしんどいことになる。

本当に?他者の懇請ってそんなに優れたものなの?という疑問が僕の中に強くあるのです。

誰かが誰かを頼ること、誰かが何かを頼むことって、実はものすごく高度なことで、誰もができることじゃないんじゃないの?それこそセンスと研究と器が必要なんじゃないの?と思います。

youtubeというプラットフォームの「要請する優秀さ」

さて、とはいえ、僕は最近youtubeを最近コツコツと更新しているのですが、これをやってると内田先生の言ってることはよく分かります。

youtubeは自分がやりたいこと、自分ができること、自分がやるべきことをやるところじゃない。

いやもちろん、それらをやるしかないのだけど、見てくれる方を通して、次こんなことしてほしいです、この企画面白いです、これやらないんですか?これ続けてくださいという声(懇請)を集める必要があると思います(だからある程度まとまった数の更新が最初は必要なんだね)。

だってマジで全然どんな動画を作るべきかってわかんないですもん。あのプラットフォームの向こう側にいる人々が何考えてるか分かんないし、自分の長所も分からない。なにより、自分がやりたかったこととか、自分ができることってのも分からなくなっていく。

だけどコメントなどで光明が差すことがあるんです。そしたら、ああ、こういうことすれば良いのか、こういうとこ映せば良いのかってのが分かったりする。

そういうのを集めていって、だんだんとyoutube上の自分が出来上がっていくんだろう。これは明らかに能力の開花ですよね。

で、よく考えたら、そもそも僕らはyoutubeというプラットフォームが懇請するものを作らなきゃならないです。それは何かって端的に言えば「長時間、人々をくぎ付けにする動画コンテンツ」です。

youtubeは人々の視線を奪いたいと思っている。だからその目的に叶う動画を優先的に見せるようにする。

この懇請(と報酬)は優秀なんだと思う。だから人気がある。多くのyoutuberになりたい、と思う。

まとめ

まとめます。

他者の期待に応えること、誰かの懇請に応えること。それが個々人の能力を開花さえる、というのは間違いないと思います。

自分のために物事が上達することって確かにあんまないんですよね。

しかし個人的には、だからいつも人の声に耳を傾けろ、請われたことをとりあえずやってみろ、というのは、なんか納得いかない。

まだ大人になり切れていないからこんなことを思うのかもしれないけれど、世の中の要請・懇請の多くはクズである、という思いがあるから。

そもそも僕らは誰に期待されたいのか、誰の要望、誰の要求になら応えようと思うのか、という点で多様である。

よって、どんな懇請になら応え続けられるだろうか?誰のリクエストになら応えられるだろうか?という点だけでも、自分の適性を知るというプロセスは必要だと思う。

もちろん、自分の適性にこだわりすぎて、本当は価値のある懇請、本当はすごく自分にあってる適性というのを見逃すのはもったいないから、少しでも興味があったり、別に苦じゃないならやってみた方が良いってのが穏当な指針。

さらに言いたいのは、翻って、僕ら誰しも「誰にどんな期待をするのか」という点をはっきりと、強く、主張する能力が必要だなと思う、ということです。

世の中きっと「なりたい人」「やりたい人」はたくさんいる。ではそういう人たちにとって魅力的なリクエストを要請し続けることが、逆説的な話だけど、この世に必要な存在なんじゃないかと思うし、人を採用する人、人に仕事を手伝ってもらう人はそういう能力が懇請されていると思う。

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