顔について考えていると、そこにはいろいろな意味があることが分かります。
顔というのは一種の記号であって、コミュニケーションツールであります。
表情というのは……どう言ったらいいか……要するに、他人との関係をあらわす、方程式のようなものでしょう。自分と他人を結ぶ通路ですね。『他人の顔』31p
僕らの顔はただついている(持っている)だけでなく、使われるものであるということです。
ここからよく考えてみれば僕らは誰でも多面性を持っていると言えます。
僕らは色んな顔を持っていて、状況や場面や相手によってほぼ無意識に今はこれだと、相応しい顔を使い分けている。
つまりいつも無意識に正解を探しながら生きている。
世の中、多様性がどうこうって話がちょっと前から頻繁に見られるようになったと思います。
このブログでも多様性についてあれやこれやと書き散らしています。
「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う
どうしてこういうテーマが語られるようになるのかというと、自分を顧みるに、「正解が分からないから」なのだと思います。
僕らはどうやって生きれば良いのか、どうやって振舞えばよいのか。この時代、自分はどうあるのが世界にとって相応しいんだろう?
僕らは時代の前に、どんな顔をして向き合えば良いのか分からなくてふわふわしている。こんなに開かれているはずの世界にアクセスする方法が分からなくてモヤモヤしている。
目まぐるしく変わる世界の中で、これからの生き方について思考を巡らせば、その問いがあまりにも大きく漠然としているが故か「何が正解か分からない」という解答がベターだということが分かってくる。
つまり、正解を定めないことこそがこれからの時代を軽やかに生きる上で身につけなければならない「正解の一種」となった。
世の中いろいろな人がいる。本人が良いならそれがベストなのだ。正解は自分で探し、作り、踏んでいくものだ。この考えが欺瞞であることも知っている。その人がそれで良いなら、例えば凶悪な殺人犯だってそれで良いということになってしまう。
だから「人それぞれ」、「正解はない故にすべて正解」は暫定処理に過ぎません。「私に関わらないうちは、誰がどこで何してても良いです」というほどの意味でしかないです。
こういうお為ごかしは安易な肯定を生み、ときには正解が違う者同士関わっても仕方ないという達観を生み、理解という名の優越、肯定という名の無関心を生んだりして、どんどん人々の住み分けははっきりしてくる。
多様性が云々される社会の中で生きる僕らには多面性がある。
これがどうしてあるのかと考えたときのしんどさったらない。
僕らには正解はないとは言え、誰かと関わるとき、無意識に、もっともここに適すると判断できる顔を引っ張り出すと思います。
僕らの正解探しは留まるところを知らず、他人に肯定や承認を求める気持ちも抑えられない。僕らについてる顔は自分のためのものではなく、ほとんど他人とのアクセスに使われる。僕らは他人と関わるとき、「これ一つだけでオーケー」というものは持ってない。
多すぎる選択肢が、自由回答の面接が、僕らをどんどん不安にしていきます。
やっぱり正解が欲しい。いや「自分が正解である」という確信が欲しい。人に認められたい。他人に好きだと言われ、お前は正しいと言われ、そうして不安を解消し続けなければ落ち着かない。そうじゃないと楽じゃない。
自分はなんでも良いはずなのに、自分が信じたものが正解なはずなのに、人と関わるときすべてを自分軸で判断するのは難しい。やっぱり僕ら他人が必要で、自分の確からしさを確かめるにはいつもひと手間が必要になる。表情をかえたりするような。
人目を気にしない、批判を気にしないというライフハックは苦肉の策として使えるかもしれないけれど、そうして自分なりの正解に執着すれば、そういう自分が無意識に、もしくは意識的に他人の評価をしていたり、「自分」以外に刺々しくなったりもする。
それは自分の正解を守る行為のように見えるし、結局、自分が正解だと信じられなければ嫌な気持ちになるのなら、大筋で間違っている。楽じゃないから。
正解を定めた瞬間に正解から遠ざかっていく。自分は正しいと口にした瞬間に間違える。その繰り返しがしんどい。
冷静に考えてみれば、多様性というのは世の中にそもそもあるものであって、別にその概念を受け入れようとする必要もなく、ましてや認めるなんて傲慢なことのようにすら思えます。
多様性を受け入れるとか認めるというのは世界のためではなく自分のため。そういう風に、自分以外にも正解があると心から認められた方がかえって生きやすいという程度のことに過ぎないはずです。
こういう健気さがなければ、きっと素顔同盟のような世界になる。
いやでも、仮面をつけると言わないまでも、僕ら社会ではある程度、仮面をつけているという感覚は否めないと思います。
結局ぼくらは正しくなければいけないと思い込んでいるし、実際、正しくないと判断されることも多く、正しくないとけっこう普通に嫌われたりする。
僕らは自分の力で、自分らしく、自分で考えて漠然とした世の中が認める正しさを身に着ける必要があって、それは無難な笑顔の仮面であって、多様な世の中である一面を磨かなければならないみたいな窮屈さが、気分によってしんどく感じたり面白く感じたりする。
ああそうか気分も多様だ。曼荼羅だ。
※追記
正しさではなく「面白さ」や「美しさ」を求めた方が自分の人生ってしっくり来るのではと思う。
だからってみんな「正しさ」よりも「美学」を持つべきだ!とか言うとこれが正解かのようになってしまってやはり間違えるのだけど、僕はこういう発想に走りがち。
でもほんと芸術というのは、そういう風に僕らを支えていると思う。
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