いま、地方は「取り残される」という形で限りなく姥捨て山状態になっていると思います。
自分が暮らす地域に親を呼ぶという家族がけっこういるみたいだけど、そういう人たちは「捨て」なかった人なんだろう。
何を言うか親を捨てたつもりなんかないぞ、たまに顔を見せているし、必要なことはやっているし、お金も出している、と思う人がほとんどで、本当に、名実ともに「捨てて」なんかいないと思うのだけど、今後限りなく姥捨て山状態は完成していくと思う。
現状、すごく小さい町でも福祉がしっかりしていて、インフラがしっかり整備されて、多少不便でも病院があったり交通手段があったりなんだりで何とか機能しているけれど、この地方にかけるお金を見直そうとなれば、姥捨て山は限りなく完成に近づく。
そしてそれはいつ始まってもおかしくないし、もう始まっているとも言える現状で国がお金に、そして労力不足に困っているという現実を思い知る。
一家に一台ドラえもんがいれば取り残された老人も生きていける
それにしても地方のインフラ整備にかけるお金を節約するというのは人道的じゃないですよね。
かと言って長年住み慣れた故郷から住人を引き離し「来月からこちらのコンパクトシティに住みましょう!」って強要するのも人道的じゃない気がする。
土地への愛着とか責任感を捨てるのは長期的に見てマイナスだろうし、むしろそういう気持ちは今後育んでいかなきゃいけないことなんじゃないかとも思う。僕ら合理だけで生きてるわけじゃない。
てことは、不合理な心と世の合理をアウフヘーベンするアイディアが必要になる。
まったく無責任なことを言えば、ドラえもんがいれば良い。
映画ドラえもんの『のび太の日本誕生』ではドリル状の配管に蛇口がついた道具(のびーる水道管)を出して「地面に突き刺せば地下水脈まで伸びて水が出る」って言ってた。
「のびーるガス管」も「のびーる下水管」もあるらしい。
これ見たジャイアンなんて言ったと思います?
「よし、取り付けておくよ」
リアクションうっす。小学生だからわかんないかもしんないけどこの道具すごいぞ。
SDGsがんばれ~コストがかからなくなるまで~
ドラえもんの道具は無理にしても、同じように、コンパクトで個人で扱えるインフラ設備があると良いですね。
バイオマス技術を使った発電、発熱技術とか、雨水や雪を浄水できる設備とか、それだけでも何とか小規模な家庭なら生きていくくらいのことはできる、みたいになれば良い。で、それ自体がもうほぼ無料で導入できれば良い。SDGsがんばれ。
それができれば姥捨て山状態になったとしても先進的で充実した生活が営めるネオ姥捨て山にできる。
こんな理想を吐いておいて依然「姥捨て山」などとひどい言い方をしているのは、当然、電気とかガス水道が個人で生み出せて生活できたとしても、それだけだからです。
これは老人に豊かな暮らしをさせるための方策ではなく、できるだけお金をかけずに、そして現役の労力も使わず、ひっそりと余生を送ってくれというための方策にしかなりえないと思う。
従来の姥捨て山は山にポツンと置き去りにされればそのまま数日で最期を迎えるでしょうが、サスティナブルな設備があれば数年は生きられるだろう、という程度のものじゃないでしょうか。
事故災害病気の類は申し訳ないが把握できないのであしからずという感じ。
見たくないものに、心を痛めず蓋をする方法を探してる
人口が減り国力が衰えるということはどこかしら切り捨てなきゃならないってことなんだろう。
人体は栄養が足りなくなったらまず髪の毛とか爪とかを切り捨てるらしい。あとちっさい血管とか。
そんな感じで地方は切り捨てられるのが合理で、でも見捨てるわけにいかない不合理を、なんとか新しい技術と知恵で取り繕う、みたいな形にしていくのが今後しばらく、というか20年後の流れになりそう。
つまり惨めじゃない風に、悲惨じゃない風に、放っておいてるわけじゃないと思い込むためのあれこれ。
なんか、僕が祖母にする色々にも、こんなメンタリティが潜んでいると感じることがある。
iPadに韓流ドラマをダウンロードしておくときとか、週末一人で食事を取るばあちゃんに、好物の筋子とかニシンの切り込みを買っていくときとか、尊重している風で実は、「そうしておけば放っておいても安心」をやっているだけな気がすることがある。
「やらない善よりやる偽善」だけど、それでも僕ら今「見たくないものに、心を痛めず蓋をする方法」を必死になって探しているんじゃないか。
より婉曲な姥捨て山。20年後、ネオ姥捨て山が生まれる。
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