人の時間を奪い快楽漬けにするネットコンテンツの氾濫にどう立ち向かうか

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岡田斗司夫が言ってた。無料コンテンツは阿片だって。

 

 

怖いですね。言われてみれば本当にそうだと思う。

妻の実家に置いてある娘のおもちゃ箱に昔のガラケー入ってて、それ見ながら、「昔これで何してたっけ?」って話したりするんだけど、その当時から比べたら、携帯端末への依存の仕方って異常。

ガラケー時代はメールが最大の用途だった気がする。友達とメール。健全。だってリアルなコミュニケーションだから。当時はそのEメールでさえあんまり頻繁にしてると批難の的だったけど。年末年始の挨拶とか告白とかメールでする時代だもんね、って、風情がない、みたいに言われた。

今はスマホ一つで映画見れるし、本読めるし、というかそういうことじゃなくてSNSは常に更新され続けていて、多くの人が発信を続けていて、いつも活発。死んでる時間というものが無い。とどまってない。

だからこれと言った目的を持っていなくてもスマホをいじってしまう。引力がある。そこに生命があるから、人の息があるから、どうしても気になってしまう。ちなみに僕は寝るときにスマホで怖い話を聞きながらじゃないとうまく寝付けない身体になってる。ヤバいと思う。

本を読んでいてもいつのまにかTwitterを開いていたりする。本当は知らない言葉を調べたかっただけなのに、ついでに、ってチェックしたSNSの濁流に呑まれて引き返せなくなっていたりする。

右手の指は読みかけの本に挟んだまんま血が止まっていて、左手親指だけが延々とスワイプ。

岡田斗司夫が言うように快楽がいつもすぐそばにある。それも、とても簡単にアクセスできる快楽が。

それによって、現実がいつも、常に煩わしいものになってしまっている。岡田斗司夫の言うとおり。

仕事、恋愛などの人とのコミュニケーションと言った、本気でやれば巨大な満足感や幸福感が得られるものを、後回しにして後回しにして、永遠にやらない、という状況に陥ってしまう。

動画の岡田斗司夫さん相当お若いのでかなり前に言っていたことですよねこれ。上記の傾向は加速して、ほんとみんな慢性的に快楽漬けの毎日を送っているという状況だと思う。

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チープで依存性の高いコンテンツに与してしまうジレンマ

僕は悩んだ。

この状況はよくないと思う。人間にとって。手近な快楽、簡単にアクセスできる快楽によって人間は骨抜きになって、滅びると思う。

僕個人の話で言えば単純にスマホをいじる時間を減らせば良いと思う。わりとできる。見えないところに置いとけばそれでオーケー。みんなもやってみたら良い。見えないとこに置いとく。普通に忘れるから意外にできる。夜寝る前の怖い話だけは止められないけど、それくらいは良いだろうと思ってる。

由々しきは全体の話だとおもう。

特に最近では、動画コンテンツが流行っているだけでなく、その中でも極短い時間で見られるもののリリースが目立ち、様々なジャンルがある中でも、女性の身体を見世物にするタイプのものの氾濫は異常だと思う。

少し下着が見えるだけ、少し肌の露出が多いだけでも人は(男は)簡単に釣れる。優れた容姿、若い女の子であればいとも簡単に人の目を惹くことができる。リアル世界ではじろじろと見られないものが、ネット世界では簡単に、しかもポップな雰囲気に彩られて罪悪感なく見ることができる(僕も釣られちゃうね)。

一度コンテンツを視聴すると類似するものが無限に流れてくる仕組みになってるらしい。youtubeなどは。切り抜き、複製、二番煎じ、大量生産。こういうものは忌避対象だったはずなのに、今ではなんだかそういうのも大手を振って肯定されている感じで、指数関数的な影響力の増加に寄与するのであれば手段は問わぬ、思想は問わぬ、ただ手を動かせって世界になってると思う。

上に載せた動画も岡田斗司夫の切り抜き動画。そしてブログの冒頭にその動画を載せたわけだから、僕もこの流れの片棒を担いだことになる。

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ネットコンテンツを発信するレジスタンス

もちろん人は一直線に進まないし、こういう問題提起は珍しくもなく、スマホを捨てろなんて前々から言われてることだし、ヤバいと思ったら各々引き返すなり避けるなりするだろう。

このままどんどん大衆が愚かになっていって、本当の本当に阿片漬けみたいになるとは思えない(現状かなり阿片漬けっぽくなってそうだけど)。

こんなん見てばっかりいたらアホになると思ったら、完全に絶たないまでも、もっと実のあるものを見ようと思うだろうし、たまには本を読もうとかデジタルデトックスやーとか、とにかく何らかの抵抗をするだろう。少なくともそういう層はかなりの人数がいると思う。

ネットコンテンツのチープ化という流れもあれば、コンテンツをきちんと活用して人生に活かそう、豊かな生活のための情報取得ツールにしようと思う流れもあって、実際、知識に対する希求とか、深い思考を面白く思う層というものも次第次第に目立ちはじめてると思う。

というかそういう層に対するコンテンツを提供しようとする人が増えたという感じか(それでも、例えばyoutubeであればポップさや手軽さと言った演出は必要か)。

そこでコンテンツを提供する側は、どっちの人間を相手にするか?が問われると思う。

そうでございましょう。

人を選別するのはよくないことかもしれないけれど、厳然たる違いがある。

どちらが良いとか悪いとかの話をするのはもっと良くないかもしれないけれど、この文章において、チープなコンテンツを呼ぶ層というのははっきり悪いと思う。その人たちが悪いというよりは、そういう人たちを喜ばせようとする善意のブローカーが悪い。

求めれば求めるほどジャンクに、チープに、情報をこれでもかと流し込んでくる暴力があって、殴られれば殴られるほど気持ち良いその打撃に塗れて自分の力で立ち上がれなくなる頃に気付いても遅いということになりかねない。

意志が奪われ、思考が奪われ、洗脳の準備が整ったら、また100%の善意で家畜化した人間から富とか性とか心とかを奪っていく。別に誰も不幸じゃないかもしれないけれど、ディストピア小説の世界が本当に訪れるのであれば、僕はそんな世界の背景(痴ほう化した人間も背景ってこと)になるのではなく、苦しくも自分の意志を持った主人公になりたいと思う。

そう言われれば多くがそうだろうと思う。「お前は愚か側」だって言われて良い気はしないはずだから、みんな自分なりの抵抗をネットコンテンツに示す。

完全に離れたり、使いこなそうと思ってみたり、新たな流れを作ろうと考えたり。

どうかな、そんなことを考えもしない人、考えてもできない人と、抵抗する側、レジスタンスとの間に格差が広がっていく。

人の時間を奪い快楽漬けにするネットコンテンツの氾濫にどう立ち向かうか

僕もこうしてネット上のコンテンツを提供するからには、完全に離れられるのもアレだけど、せめてただ人の時間を奪うだけでないものを作りたいなと思う。発信する立場でありながら、ネットコンテンツで作り上げられそうなデストピアに抵抗する勢力に与したい。

そのためにはどうするか。

正直まだまだ答えは出ていないんだけど、例えば文章に対するとき、格闘するという意識は必要だと思う。

全体的に暑苦しいことを書いているかもしれないけれど、あらゆることは簡単を善しとされていってしまう。

いわゆる教養というものに対する興味が薄れていき、読めもしない哲学書を読んだり、面白さが分からない古典を読んだりするのは時間の無駄、無益と捉えられがちな昨今だと思う。

分からないけど頭に入れる、意味不明だけど読み通す。こういうことを笑う時代に対する抵抗こそが、チープ化し、麻薬化していくネットコンテンツに対抗する手段の一つじゃないかな。

誰にも読まれない長文を書いたり、コツコツ言葉を調べたり、分からないことは分からないと言ったり、そういう発言とか記録が、誰かを触発するかもしれない。

そういうことを考えながら今後はブログなど書いていこうと思ってます。

 

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