『草枕』に書いてある日本人の宗教観

 『日本人とユダヤ人』という書籍に「日本教徒・ユダヤ教徒」という章があり、曰く、日本人は無宗教というけれど実際は厳として日本教とでも言うべきものがある、という話が展開されています。

著者は、日本版『創世記』として『草枕』の一節を引き合いに出します。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう   『草枕』 より

これをカトリックが読むと驚くらしい。なぜなら、キリスト教では、世界を作ったのは神だからです。

漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根源的な考え方である。

この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対蹠的である。

猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。『日本人とユダヤ人』118~119p

面白いですね。

日本教の根源的な考えは、「人の世を作ったのは人だ」ということなのだそうです。

それがつまり、無宗教ってことなんじゃないの?と思うかもしれないけれど、人の世を作ったのは人だ、とナチュラルに信じることができるという点が、日本人の独特なところなのでしょう。

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日本人らしい美徳のメッキが剥がれ気味

日本教の根源が、「この世を作ったのは人だ」という考えにあることが分かれば、何となく日本の良いところも、悪いところも、確かに、この宗教の教えに則っているのかなと思わなくもないです。

すべて人と人のやりとり。人の目があって、自分がいるという世界観。こう言って正しく輪郭を捉えられているのか分からないけれど、この茫漠とした感じがまさに日本教という感じがする。

日本人の付和雷同になりがちな性質、事なかれ主義、世間体を気にしすぎる性向、本音と建て前、根回し、成り行き、空気を読む、忖度する文化。

「忖度」についてはなんだかめっきり悪いイメージがついてしまったような気がしますよね。本来良い言葉だと思うのだけど。

この「忖度」を見ても思うのだけど、なんだかこういう日本人らしさが、どんどんマイナスの性質を帯びていっているような気がする。

いずれも世間とうまくやるにはある程度必要な処世術だったのだろうけど、今ではまったく美徳とは言えないことだらけなんじゃないか。というか裏目に出てばかりなんじゃないか。

それこそグローバルな世の中になって、オープンな世の中になって、日本教のメッキが剥がれてきている感じがする。

ここでもう一か所、『日本人とユダヤ人』から引用。

川端康成氏がハワイの大学で行ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである。

法ではなく情で裁く日本

なんだが、「法」よりも「情」なんだろう。

ハイコンテクストな文化と言えばそれなりだけど、嫌な言い方をすればみんなデフォルトで腹蔵のある、油断ならない人また人が世界を作っているから、同じように対抗しなければならない。

よく転べば人の気持ちを深く思いやれるエスパー集団であり、阿吽の呼吸で仕事が進む匠であり、裏腹な感情に雅を見出す国民なんだと思う。

でも場合によっては、僕らは情によって無茶を通そうとする悪癖を持っていると思う。

例えば僕らは法によって罪を裁くよりも、人の情に訴えて、人の世から追放することを好む民族なんじゃなかろうか。

ワイドショーなんかを見ていたら僕はそんな風に思います。

誰かが何かの罪を犯した。こういう罪を犯したとなったら、その罪がいかに重いかが云々されるわけだけど、主眼は世間の感情に見合った刑を与えられるのかどうかにあるような気がする。

悪いことをした人に人権はないとでも言うかのような態度を見せ、その世間の感情を煽るような報道に疑問を持つ出演者もいるはずなのに付和雷同な性質を呼び起こす土地の力で同じようにしかめ面をして必要とあらば一緒になって貶す。

罪を犯せば罪そのものだけでなく、その人の人格とか、趣味嗜好とか、日ごろの態度とか、そういうところ全部まとめてけちょんけちょんにしないと気がすまない。最初からダメな奴だったんだ、性根が腐ってるんだという風に納得しなきゃならない。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉はまったく機能する様子がない。

聖人になるスポーツマンと、変人になる作家

反対に、スポーツで活躍した人は頭の先っぽから爪先まで褒め称える傾向にあると思う。

受け答えが素晴らしいだの両親と仲が良いだの食べ物は何が好きだの、プレーとは関係のないところまで褒め称える。

スポーツ選手が悪いことをするとすごくガッカリするのはその反動なんでしょう。

「スポーツマンたるもの」みたいなのが強くあって、ありすぎる気がする。

日本だけに限ったことじゃないのかもしれないけど、僕はこういう傾向を報道に感じるといつも気持ち悪いなと思う。この気持ち悪さは、知らない宗教に巻き込まれた感覚なんだろうか。

もう一つ愚痴を言わせてもらえれば、同じ文化なのに、文学賞の受賞者などに向ける尊敬が少し物足りないような気が。

活躍したスポーツ選手をあんなに褒めるんなら芥川賞を受賞したあの人の根気強さとか研究熱心さとか繊細さとかそういうところも根掘り葉掘り褒めたらどうだって思うんだけど、そんなことは起こらない(実際起こっても嫌だけど)。

作家なんてのは変人に決まってるみたいな感覚がきっとどこかにあって、ちょっとおかしな部分ばかりはよく報道される傾向がある。

『共喰い』で芥川賞を受賞した田中慎弥さんの受賞会見が話題になったり、又吉さんと一緒に芥川賞を受賞した羽田圭介さんのキャラクターが面白がられたりしたのは、「作家」は変、みたいな日本教徒の感情にマッチしたからなんじゃないだろうか。

ああなんか愚痴っぽくなってしまいました。

「日本教」がどんなものなのか、いまだによくつかめていないところがありますが、「日本教」という概念を知ることで、世の中で起きていることの理由みたいなのが何となく分かるような気がしました。

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