口外するほどではない「人間嫌い」

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人と関わることに漠然とした恐怖と嫌悪感がある。昔からずっとある。

二冊ほど本を読んだ。

榎本博明著『「対人不安」って何だろう? 友だちづきあいに疲れる心理』

中島義道『「人間嫌い」のルール』

「人間嫌い」と「対人不安」に関する本の両方を読んだわけだけど、これらを読んで分かったのは、僕はどちらかと言うと「人間嫌い」の方なのだということ。

これは感覚的な話で、『「人間嫌い」のルール』の方が読んでて納得できたというか興味が持てた、というだけの根拠でしかないのだけど、もし僕が「人間嫌い」なのだと自分で認めることができて、そう前提してこれから生きていけば、もっと人生が楽になるのではないかと思った。

例えば『「人間嫌い」のルール』には以下のような文章がある。

「共感ゲームから降りる」という章に

人間嫌いは、決まって集団行動嫌悪者であるから、自分の趣味に合った社会を思い描くことはできても、それを実現する社会運動を開始するという発想には至らない。

という文章があるのだけど、これを読んで僕は自分のことを教えてもらった気になった。

昔から本当に「所属」が苦手で、「参加」という言葉も嫌いで、集団を避けて避けて生きてきたのだけど、学生時代はそうもいかず、それどころか「集団行動」が基本でさえある「野球部」に「所属」していたのは今考えても非常に不合理なのだけど、あの辛さ、そして今抱いているこの辛さは、僕が「人間嫌い」だからなのだと思えば納得できる。

というか、その野球部にいた時代、級友から「お前は人間嫌いだよね」と指摘されたことがあるのだけど、そのときは心外というか、「むしろ人間は好きな方だが?」と思っていたくらいなんだけど、周りから見てそう見える程度には僕は「人との関わりを避けて」いたのだと思う。

思えば、そのとき咄嗟に人間嫌いを否定したのは、人間嫌いを口外することの危険を察知したからなのではないかと自分で思う。人間嫌いなヤツなんて絶対嫌でしょだって。ましてや自分は人間嫌いなんだと口外してはばからないヤツなんてそれなんのアピール?状態だし、何もいいことなんてない。

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潜在的な人間嫌い

じゃあ今どうしてこんな文章を書いているのかと言うと、「人間嫌い」というある種の人間が、実は非常にたくさんいるのではないかと思うから。

自覚なき人間嫌い、もしくは人間嫌いと口にするデメリットの方が上回っているから口外しないだけで実は薄々気付いている人間嫌い、人間嫌いと言えばなんか中二病っぽい感じがして恥ずかしいな、それただのコミュ障ってだけで、コミュニケーションがうまくいかない理由を「人間嫌い」とか言っていればなんかプライドが保てると思ってる節があるんじゃないの、って思われるのが嫌な人間嫌い。

こういう人が実は大勢いて、実は5人いれば2人くらいは「どちらかと言えば人間嫌い」とかそんな感じなのではないかと思ったから。

このバランスによって、僕らの日常はわりと平穏に過ぎているのではないかと思う。

でもこれは中々にして向き合うべき課題であるとも考えてる。内向的な人間が社会で抱える生きにくさと同じような、というかかなりの領域で重なり合う生きにくさが「人間嫌い」の人にはあると思う。

「人間嫌い」とは言え、それは例えば高いところが嫌いとか、コーヒーが嫌いとか、昆虫が嫌いとかの嫌いとは少々違う。

人間を見て「うえ、気持ち悪い」とか思うわけじゃなくて、うまく言えるか分からないけれど、「人間と関わるときに自分がこの上なく嫌い」という感じを持っているのがここで言う「人間嫌い」だと思う。

誰かに信頼を寄せられない自分、自分の領域に足を踏み入れて欲しくないと思いながらそれでも表面上は鷹揚に振舞って、気安い人間になろうとしている自分。そういう欺瞞に満ち、常に嘘をついているような気分になってしまう空間。

そういうものを避けようとすると自然と人間を避けなければならなくなってしまうという自意識モンスターのごとき人間嫌いが僕のような人間。

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「まちづくり」と「人間嫌い」

僕は自分が暮らしている町の発展を、いや存続を願っている。持続可能性を少しでも上げられればと思いながら生きている。もちろん介入するからには理想の未来というものがあって、それは実現困難に違いないけれど、実現するための方策として、やるべきことをやっていないという自覚がある。

ここでもう一度さきほどの引用文を引用しようと思う。

人間嫌いは、決まって集団行動嫌悪者であるから、自分の趣味に合った社会を思い描くことはできても、それを実現する社会運動を開始するという発想には至らない。

社会運動を開始するという発想には至らない、というわけではない。

いわゆる「まちづくり」という領域において、社会運動というものは切っても切れない発想だと思う。だから頭の中に無い、というわけではないけれど、確かに「開始する」という発想には至らない。

具体的なことを言うと的が外れるかもしれないけれど、例えば社会に働きかけて誰かに協力してもらうとか、自らのイベントに参加してもらうとか、広く知ってもらうとか、そういう活動はできる限り避けている傾向にある。

何度か、とは言えやらなきゃダメだろうと思ってアクションを起こしてみたこともあるけれど、僕にはストレスが大きすぎてとても向いていなかった。

僕が思い描く理想とは、どこまでも閉じた世界であり、どこまでも自己完結する世界で、

これも口に出すと偏屈に過ぎて、それじゃダメだよと言われるのがオチなんだけど、ここを曲げて実現する理想はもはや理想の姿とは程遠い。

あるときある人に、「まちで何かしたいんだったら応援されなきゃダメだよ。周りの応援がなくてうまく行っている人を見たことがない」というようなことを言った人がいて、僕はその瞬間にもうこの人には何も話すまいと決めた。なるほど時間は有限だ、人と人の間には壁があると強く感じた。

もちろん善意のアドバイスなんだろうけれど、何かあったら相談して、も、あの人なら繋がってるから紹介できるよ、も、僕には不要で、そういう働きかけに出合わないためにも人を避ける傾向がある。

人間嫌いのルール

人間嫌い、という性質が自分の中にあると思っていれば、そしてその性質についてある程度自分の中で咀嚼して、自分は人間の、もしくは人間関係のどこが嫌なんだ?と考えておけば、避けるべき領域というのが次第に見えてくると思う。

最近の僕は老化も相俟って、多少決めつけの部分が多くなっているという自覚もある。

関わったらどうせこうなるとか、そうなることが多い。このままでは偏屈になりすぎるし、老化していると言ってもまだ30代、社会と折り合いを付けなければならない世代であるから、まだまだ試行錯誤は必要だと思うし、人間嫌い故の失敗というものもまだしていかなければならないと思う。

『「人間嫌い」のルール』の最後の章には、「人間嫌い」のルールが10羅列されていて、これを参考に自分の人間関係の方法をデザインしていこうと思う。

僕が重要だと思うルールを三つここにメモして終わりにする。

ルール3 したいことは徹底的にする
ルール6 心にもないことは語らない
ルール9 自分を「正しい」と思ってはならない

 

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