小説が持つ、ストーリー以外の嘘

photo of nimbus clouds自分で考える創作論
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小説は本当ではないことが書かれている。

本当ではないことを書くために多少本当のことを織り交ぜたりする。

本当ではないことこそが目的である、と僕は思いたい。

フィクションとはすなわち嘘だ、と言えばなんかちょっと違うかもしれないし、小説を書く人によっては本当よりも本当のことを書くために架空の物語を書くのだ、というような人もいるかもしれない。

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小説は本当のことを書くためのものか、本当ではないことを書くためのものか

確かに、たまにそんなことを考えないでもない。

偽物と本物、どちらに価値があるかというようなことを考えるとき、西尾維新著『偽物語』の中で繰り広げられるエピソードを思い浮かべる。

本物と、本物と見分けがつかない偽物、どちらに価値があるか。

貝木泥舟という作中人物は、偽物の方が本物よりも価値があると言ったらしい。そこに本物になろうとする意志がある分だけ、偽物の方が圧倒的に価値があると。

カッコいい。その原理を小説に当てはめたくもなる。本物よりも本物のことを作り出そうとして、架空の物語を仕上げるのだと言えば何となく「キマる」感じがする。

だけど僕は最近小説に「本当」なんてまったく求めていなくて、かと言って完成度の高い嘘を、とも思っていなくて、ただ文字と言葉と文章の繰り返しがあって、それが頭の中で意味とかストーリーとかの形で立体的になっていく過程がただ楽しいだけ、という感じがする。

その時間は僕だけのもので、その時間は本物と言って良いだろうけど、その時間の中で見たものは全て嘘、と言ってしまっても良いのではないかと思う。

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牛の糞を眺めている時間と小説を読んでいる時間の似方

僕は酪農の仕事に携わっていて、牛が垂れ流した糞をベルトコンベアのような仕組みの、武骨な機械を使って外に出すのだけど、牛舎の外側、空に向かって緩やかに傾斜しながら伸びるその先端が、牛糞をポトポトと落としていくところをずっと見ていられる。

仕事中なのでずっと見ているわけにもなかなかいかないんだけど時間がゆるせばできる限り糞が落ちていくところを見ていて、糞は山になって積み上がっていくのを見るのが好きだ。

日によって混ざっている藁の量が違ったり、糞の質が違ったりして、糞の積み重なり方が異なり、冬はもちろん糞の山が氷のように固まって、なかなか壮大なピラミッドを作る。その向こうに見える朝日の明かりも素晴らしくて、手前の汚さと奥の真新しい光が対を成して美しい。

そういう一連と小説を読んでいるときの感覚は少し似ている気がして、その感じ方こそ本物と言って良いのだろうけれど、その対象はどれだけ嘘くさくても、本当でなくても構わないような気がする。

本当に経験したことで、本当に感じたことを書いたのだから、牛の糞云々は本当のことなんだけど、読んでいる人にとって、それが本当と思われても嘘と思われても構わないと僕は思う。

実際、僕が見たものは本当でも、こうして文章にするにあたって、本当は全然綺麗とか美しいとか感じたことがないのにそう書いたかもしれない。

本当は臭いとか寒いとか、そういうことばっかり考えながら、チェーンが外れてしまうかもしれないその機械を見ていなければならないというのが本当の話なのに、そういう点は意識的に見ないで、汚い仕事を美化して書いている場合これは嘘か。

小説のストーリー以外の嘘

小説の最も大きな嘘はストーリーなんだと思うけど、そんなことを言ったらまず人物が嘘だし、場所だって嘘だし、描写も、風景を通した感情も、何もかも嘘だから、そこに嘘度の差はないように思う。

結局何を選び、何を選ばないか、というところに意志がある限り、現実を映し尽くすなんて無理な話で、それは画素数の高いカメラで撮った景色が本当なのに全くの嘘物だというのと同じような話なんだろう。

っていうこんな、煙に巻くような話をするのは楽しいんだけど、読んでる方は別に面白くないかもしれない。何となく意味を整理して反駁したい気持ちとか、反対に全て肯定したい気持ちとか、そういうのが読んでいる人には芽生えてくるかもしれず、そうなったら嬉しい限りだけど、僕はその、誰かの意見に興味があるのかないのか分からない。

タイトルにわずかでも答えるための文章を書くとすれば、これまで書いたすべてのことを前提とした上で、小説の中の人物は、小説の中の人物を、実によく見ている、というところに大きな嘘があると思う。

現実において、他人はほとんど自分のことを考えてはくれないし、自分だって、他人のことをほとんど考えない。家族とか、恋の相手とかのことは多少身を入れて考えるかもしれないけれど、それでもやはり自分のことを経由して、余剰分で考えるのが関の山のような気がする。

現実において他人に無関心な我々と虚構において他人に関心を持つキャラクター

言い方を変えると、人は人の話を聞いていないし、僕も人の話を聞いていない。人の話を、文章で書いてあるように理解しようとしていない。小説の中の人物のように、他の人物のことを気にかけない。

現実における他人への関心の無さ、というものをいくら書いても、なんだかうまく伝わらないような気がする。

現実では他人のことをあまり気にかけないと言われれば反射的に、自分は周りのことばかり気にしてしまうとか、身内や配偶者、もしくは友人のことを本当に自分のことのように考えている、と思う人もいるだろうと思う。

その上で、「小説のように」は考えていないと考えているのだけど、この「小説のように」というのが具体的に何なのかということをうまく書けないからなんか何を書いていてもダメなような気がする。

何が言いたいのかと言うと、現実の世界における「他人のことを考える」という行為は一貫していない、ということかもしれない。

「他人のことを考える」という行為が一貫していないということをさらに言い方を変えて言うと、きっと、現実に生きる人のキャラクターはそれほど一貫していない、ということだと思う。

現実の人間の言動はある程度の期待値に収まるには収まるけれども、架空の物語の人間のようにではない。架空の物語の人間がいつもと違う言動をとったのであればそれは何らかの一貫したキャラクターの性格や性質によるものが大半で、あとで事情を知ればその「いつもと違う言動」にも他キャラクターが納得する論理があったりする。

「いつものあの人像」と純文学っぽさ

こんなことをいつまで書いていても仕方ないので具体例を出すけれど、最近よく見ている「とある科学の超電磁砲」において、主人公の御坂美琴は自身のクローンを使った実験を中止させるため、単独行動を取り続ける。

実験機関を破壊し尽くす日々を送るのだが、その間、親しい人間には何も悟られまいとしてよそよそしい態度を取ったり、明らかに何かあると露見している状態においても、肝心な点は決して口を割らなかった。周囲の人間は御坂美琴が何か隠しているということを承知の上、いつもの彼女が戻ってくるのを待つ、という選択をする。

御坂美琴は持前の男気で、自分で蒔いた種なのだから自分一人で後片付けをしなければならない、他の人を巻き込んではならないという信念に従って単独行動を続けていた(これはいつもの御坂美琴)。一方周囲の友人たちは、御坂美琴を尊重し、心配しているということは伝えた上で干渉しない道を選んだ。

いずれも「いつものあの人」というものが揺るがないという信頼のもとに作られるストーリーであって、現実においてこれほど信頼できる「いつものあの人像」というものは無いのではないかと僕は思う。

小説の話をしている風で例をアニメから取るのはおかしいと思われるかもしれないけれど、ほとんどのエンタメ作品において、この揺るがない「いつものあの人像」を前提としたキャラクターの行動選択というものは散見されるのではないか。

逆説的な話だけど、この傾向が薄いものであればあるほど「純文学っぽさ」が高まるのではないかってことを今書いていて思ったところでこの話は一旦お終いにしようと思う。

いわゆる純文学と呼ばれる作品を読みたくなってきたから。

 

 

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