9問目「小説はどんな人を救うだろうか?」
の回答です。
小説はどんな人でも救うと思います。
とは言え、どんな人でも小説を読むかと言えばそうではないことは分かる。
小説を読むという行為は負担が大きいからです。
小説に限らず、文章を読むという行為は負担が大きいです。
主体的に文字を追い、頭の中で意味を構築しながら、かつ前の文をきちんと飲み込んだ上で、次の分の意味を積み上げ、読み進めなければならない。
一文ずつ追うというミクロな目線と、これまでの文章全体で書かれていること、つまりマクロな目線を行ったり来たりしながら頭の中にしまっていく必要がある。
とても骨の折れる作業だと思いますから、誰もが本を読むわけではない。特に小説は仕事のノウハウが書かれているわけでもないし、人生の成功法が書かれているわけでもない。
実生活でほとんど役に立たない虚構の物語ですから、読まない人がたくさんいるのは分かるけれど、読めばどんな人でも救う強さがあると思います。
じゃあその強さってなんなのかっていうと、僕は「円滑なコミュニケーション」が書かれている点にあると思います。
小説では円滑でノイズのないコミュニケーションが書かれている
円滑なコミュニケーションが書かれている。
話がかみ合わないとか、不条理な展開とか、そういうことはあるけれど、小説内で繰り広げられるコミュニケーションはどこか徹底していて、洗練されています。
意味のない文章は基本的にないはず(少なくとも無駄のない文章が目指されているはず)だし、作中人物はある種一貫した人間性を持っている。
この点、うまく説明できずもどかしいのだけど、日常のコミュニケーションで生じるような曖昧さや、ただ音として流れていくような会話や、意味のない繰り返しと言ったノイズがない。
雑音や雑味の混ざっていないクリアなコミュニケーションを、僕らは小説で楽しむことができる。
小説はコミュニケーションに疲れている人を救う。
それで、円滑なコミュニケーションが書かれていることでどんな人を救うのかと言うと、多分どんな人でも。
僕ら他者とのコミュニケーションがなければ生きていけないけれど、同時に、他者とのコミュニケーションにも疲れ果てていたりするんじゃないだろうか。
その疲れは、きっとガヤガヤした場所で誰かと話すときみたいな、溢れすぎる情報から重要なことを精査して取り出す作業によるものだったりするのだと思う。
また、日常では言語だけのコミュニケーションはできず、実にたくさんの神経を使う。表情や仕草や声色などを駆使して、僕らはやっと普通のコミュニケーションを取る。
僕はキャパシティが小さいからよく分かるんだけど、そういう、いろいろな手法を駆使したコミュニケーションは大変疲れる。
日ごろ、人と関わることが少ないからこその疲れかもしれないけれど、みんな少なからず疲れていると思う。
だから、円滑な、言語によるコミュニケーションに集中できる小説は多くの人を癒すと思う。
小説はほぼすべての人間を救う力があると思う
人付き合いに疲れたときに僕は小説が読みたくなる。
小説が読みたいという感情は、独りになりたいという感情とほぼ一緒。
独りになりたくなることはよくあるけれど、決して人が嫌いなわけじゃない。
近くに人がいると嬉しいし、誰かを話すことは楽しい。
しかしリアルなコミュニケーションでは駆使しなければならない能力が多すぎて、ノイズを除去するのに多大な労力がかかるのですぐに限界を迎える。
個人差はあるだろうけど多くの人がコミュニケーションを欲すると同時にコミュニケーションに疲れてもいると思うので、小説はほぼすべての人間を救う力があると思う。
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