ざっくり20年後、大介護問題がやってくる(僕周辺で顕在化する)と思ってる僕は、マントルケア、つまり近隣同士、友人同士で助け合う文化醸成をし始めなければならないんじゃないかと思ってる。
ただ助け合いとか譲り合いってそんな簡単じゃない。助け「合い」、譲り「合い」っていうけど、助けるとか譲るとかって、持つものが持たぬものに、強き者が弱き者に、っていう構図が絶対にある。
電車で老人に席を譲るか譲らないか、みたいな話で、下手をすると「譲る」って行為が失礼になってしまったり、不快にさせてしまったりすることもある。
肌感の話だけど、「助けるのはいくらでもOK、助られるのは無理」って人、「譲るのは構わないが譲られるのは納得できん」という人って結構いる。
互いに、というのは、客観的なパワーバランスのみならず、各々主観のパワーバランスも踏まえた上でなければ成立しない。だから難しさを感じる。
みんな、できないと思われるのは業腹である
でもそりゃそうだ、老人介護に限らず人間って守られるとか、できないと思われるとかって普通にプライドが傷つく。
そもそもその辺にあんまりプライド持ってない人もいると思うけど、多くの人はきっとできるのにやらせてもらえないとか、必要ないのに助けられるとかってあんまり良い気しないだろう。うちの小さい子だって自分でできるのに手伝おうとしたら怒るもんな。
ばあちゃんだって蔑ろにされたりあんまお節介焼くと不快な顔するもんな。
だから助けるとか手伝うとかって相当センスが良くないとできないと思う。
早めに助けちゃう人、手伝っちゃう人は相手のことを思ってやってるのかもしれないけれど、相手の実力を発揮する手前で助けちゃったり、試行錯誤の機会を奪っちゃったりという弊害に気付いていなかったりする。
こういう機微、というほどのことでもないか、普通の心理みたいなの全部すっ飛ばして、互いに助け合おう!みたいなことを言ってもなんだかなと思う。
ましてや介護なんて、ボランティア精神とか孝行とかだけでは全然うまくいかないもんだろう。
「老いては子に従えないなら旅人になれ」
実際そうなんだよな。僕らからしたらばあちゃんはもう明らかに弱者で、保護、サポートするべき人間なんだけど、本人はそう思ってない。正直、都合の良いときには弱って、なんでここでってところを自分でやろうとするみたいな傾向がある。
スッと言う通りにしろや、勝手なことすんなやって言いたくなることもある。
「老いては子に従えって言うじゃん、ほんと言う通りにして」とか確か実際に言ったこともあるけどまったく聞いてくれない。
こういう齟齬を解消するために「他人の介入」ってのは効果的なんだろうな。なぜか他人とかテレビの言うことは聞くもんな。でも実際本当の意味で他人を頼るとなるとそれはそれで数多の問題が降りかかってくるわけで、なんにせよ、人を保護するとかサポートするっていうのは難しいものですな。
で、うようよ考えているうちに何となく考えたことがあって、それがこの記事の結論&タイトルなんだけど、「老いては子に従えないなら旅人になれ」って話。
定年したら即移住
これから書くのは暴論。正直未来の介護問題とか、大問題になることはわかりきってるけど、解決法なんて逆立ちしても思い浮かばないからただの妄想に走ることにする。
それはどんなんなのかって言うと、これから定年迎える人とかが移住しまくれば却って「他人からサポート受ける人口」って増えるんじゃないかって話。
というのも、人が素直に人の助けを受け入れる状況ってどんなだろう?って考えたとき、門外漢な分野に足を踏み入れたときとか、自分の土俵の外にいるときだなって思うわけです。
一方慣れた仕事、経験のあること、住み慣れた土地。こういう場所ではどうしても助けられるより助ける立場になる。
そういうがちがちに固まった状況であれば人はきっと自分のテリトリー意識から少なからず傲慢になって、他人に施すとか助けるとかすることはあれど他人の施しを受けるのはなんか違う、みたいになるのではないか。
ならば若い人が進学して都会に行くみたいな巣立ちのイベントが、定年を迎える世代にも当然のように訪れれば良いのに。もう言っちゃえば強制的に住み慣れた土地から離れる巣立ちイベントが発生するみたいな、そういうことがあればなんか良いことが起きそう。
積み上げたものをぶっ壊して平に均す文化からマントルケア文化へ
移住促進とかどこの市町村でもしてるけど、どうにか若者を呼び込もうとかしてるだけで、自分たちが動こうなんて発想はないですよね。
余生は住み慣れた土地で、お金の余裕もあるし、このまま平凡に楽しく過ごせたら幸せって当然のことで、今更好き好んで知ってる人もいない未知の環境に飛び込もうなんてあんまり思わない。
でも定年即移住みたいな流れができれば、いい感じで人間のシャッフルができて面白いな。
で、新しい地域では当然誰でも「助けられる側」になりやすい。知らん土地でいきなり人に施す側になるのは難しいだろうし、いろいろ教えてもらわなきゃならないことってたくさんあると思う。
さらに施されたら施された分だけお礼お返しの名目で何かを贈るとか手伝うとかもできて、このお礼とかお返しの名目を前にそれを退けるということはまああんまないだろう。
こういう風に積み上げたものをぶっ壊して平に均す文化が生まれれば、マントルケアのごとき互助の文化というのも次第に10年とか20年とかかけて出来上がっていくのではないかと思う。
色々突っ込みどころはあるのかもしれないけれどなかなか面白い発想だと思った。
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