僕が札幌から田舎に帰って来て暮らしている理由の一つに祖母の存在がある。
僕は4歳だか5歳だかの頃、どうしても保育所に馴染むことができず一年の登園拒否経験があるのだけど、その一年間、ずっと祖母といたものだから立派なおばあちゃん子になった。
その保育所に今では自分の子が通っており、朝はぐずったり、お別れ際に泣いてしまったりすることはあるけれど、確実に父よりはうまく環境に適応しており、行ってしまえば楽しいらしく、偉いなと思う。
僕はと言えば、保育所に行くことを放棄した当時、多少の罪悪感と多大な充実感の狭間で揺れており、いつも頭の底にわだかまっている心細さがあったけれど、祖母がずっと一緒にいてくれたので、概ね楽しく時間を過ごすことができた。
その頃に時計が読めるようになったし、多くの漢字を教えてもらった。そういう恩がある。
僕の人生の選び方の背景には祖母への恩がある。
恩があるから、歳をとった今、できるだけ近くでサポートしたいという気持ちがあるのだけど、恩があると思えないほど反射的に怒ってしまう。
さっきも急にうちのチャイムが鳴り、すぐに祖母だと分かった。
滅多に来ないのだがこんな時間にチャイムを鳴らすとしたら祖母しかいない。腹が立った。
このパターンは決まっている。年に2,3回ある。猫が見つからないと言いに来たに違いないことが出る前に分かった。
案の定「ねこ、こっちに来てないかい」と言う。来ているわけがない。さっきから探しているが見つからないと言う。聞けばもう一時間ほど探しているらしい。なぜ早く言わない。雨が降っている。腹が立つ。そもそも僕が貰ってきた猫で、僕の長女だ。祖母のために置いて行った猫。
判断能力の低さに腹が立つ。そもそも22時近くにチャイムを鳴らさないでほしい。子供が寝ている。その能力もないのに1時間も無駄な捜索活動をしないでほしい。
僕が行けば15秒でみつかった。
できれば怒らずに祖母と過ごしたい。
恩のために近くにいるのに、祖母の印象としては、何かすれば怒られるという印象が溜まっているらしい。
それは不本意だが怒らずにはいられずにつらい。
どうしたら良いか分からないが僕はどこかで怒りに行っていることに気付いている。
怒らずに済むための方策はいくつかあるってわかってる。パターンがわかっているのだから対策ができる。そのうえで優しく接すれば良いのに僕は怒りたくて怒ってる。
祖母に痛い目を見てほしくて怒る。猫の気配に気づけずたまに逃がすこと、夜に電話ではなくわざわざチャイムを鳴らしに来ること、探せもしないのに何時間も自力で何とかしようとすること、それらすべてが間違ってると思い知らせたくて怒る。
でもその甲斐はなくすべて綺麗に忘れる。なんとなく嫌なことが起きたという印象しか残らない。
これじゃ恩を仇で返しているようなものじゃないか。
コメント