ラマダン中のガイドさんにトムヤムクンを勧めてしまった話

写真×エッセイ

新婚旅行に行ってきました。

シンガポール、マレーシア、タイを巡る豪華なアジアクルーズだった。

船内には数えきれないほどのアクテビティ、多国籍な言語と肌の色に一週間近く囲まれて、毎日のようにバイキング料理を楽しみ、一日だけは船内の予約が必要なステーキレストランでディナーをいただいた。食った食った。食った記憶しかないほど食った。

目が覚めればシンガポール空港だ、目が覚めればマレーシアだ、目が覚めればタイだ、ってファイトクラブの主人公みたいな、だけど良い意味で現実感のない浮遊経験ができた。

 

『ファイトクラブ』を読む/君は自分が生きていると心から感じるか。他人の不幸に癒される完全な人生について

 

寄港地で観光するわけだけど、基本的にインドアな僕ら夫婦(船旅にPSP持ってったほど)には5時間から8時間くらいの自由時間でプラッと外に出るのは良い感じだった。

僕らにとって、そしておそらく多くの内向的な人間にとって「帰る場所が決まっている」というのは大きな安心で、出かけて、食って、帰って、食って、寝て、目が覚めると違う場所にいるというのは何とも贅沢な気分になれた。

そんな旅行から帰ってきて一発目の話が「ラマダン中のガイドさんにトムヤムクンを勧めてしまった話」というのはどうかと思う。

どうかと思うし、ラマダン中のガイドさんにトムヤムクンを勧めてしまったというだけの話でしかないのだけど、書きたくて仕方ないのだからちょっとした旅行記だと思って、暇な方は読んで欲しい。

 

僕らがやってしまったのは「ラマダン中のガイドさんにトムヤムクンを勧めてしまった」ということだけと言えばだけなんだけど、それは僕らがムスリムじゃないから「だけ」なわけで、二つの意味で大それたことをしてしまった感がある。

一つは他宗教への関心が足りず戒律を破るようなことを勧めてしまったという単純なミス。

なにも他宗教に関心を持たなきゃならないってわけでもないけれど、お世話になった人の個人的な宗教心をリスペクトする準備がなかったという点は恥ずかしい。

思えば、マレーシアのペナン島でも夜から開店するお店で「ラマダンセット」なるものが売られていたのを見ていたし、何よりガイドのマリーさんがムスリムだって自分で言ってたのだから、ラマダンの可能性を考えられても良かった。材料はあった。それが悔しい。

もう一つやってしまった感が強いのは、ラマダン月は日が暮れるまで飲まず食わずなのだから、普通に考えて空腹と戦っているだろう人に食べ物を勧めてしまったということ。宗教とか関係なく、食事がとれない状況の人の前でご飯を食べるのは酷だろう。

考えたら僕らがタイの料理屋さんで個室を選び、良かれと思ってガイドのマリーさんを中に招き入れ、彼の目の前で食事を摂ろうとした時点でちょっと無神経だったのかもしれない。

お料理屋さんに連れてきてくれたのはマリーさんだし、その時点ではラマダンのことなんかまったく頭になく、一緒に食事をしようと思っていたので不可抗力でもあるんだけど。

マリーさんは個室に入るなり、おそらく奥さんと電話を始めました。

料理が来たので、三人分取り分け、電話中のマリーさんに差し出すと、「俺は良いよ」って感じで手で制し、器をこちらに寄せてきます。

僕らとしてはそこでもうひと押しする教育がされているわけです。そんなこと言わず、どうぞどうぞって具合で、手で壁を作るマリーさんに対し、二本(日本)の槍でぐいぐいと、そしてヘラヘラと、スパイス薫る海老ゴロゴロのトムヤムクンをマリーさんの方へ押しやった。

電話を終えたマリーさんは、「食事も飲み物もいらない」とはっきり言ったあと「ラマダンって分かる? ラマダン中は日没まで一切の食事をせず、何にも飲まない。だから食べない」と言ったのでした。

全速力で謝った僕らに「いいよいいよ大丈夫」と言ってくれたマリーさんだったけど、逆の立場だったら空腹による血糖値の低下によりイラつき乱れることは間違いないです。

ラマダン中は争いごとなんかも避けるというから、この対応も含めて宗教心に裏打ちされたものなのかもしれないけれど、なんというか、僕らが異国から来た試練になってしまったのではないかという恐怖がありました。

ビクビクしてしまう。動揺する。

さてちょっとだけ話が逸れて、本の話をします。

ラマダン中のマリーさんに食事を勧めてしまったことを本気で後悔したのは、船に戻って本を読んでいるときでした。

村山由佳著『遥かなる水の音』という作品でした。

僕は過去に、何件かの旅行者用の宿に泊まった経験があって。

僕はどうやら風のように流れていきたい旅人体質ではないようなので、ほんの数件の経験でしかないけれど、そういう宿には高確率で本が置いてあるコーナーがある。

たいていの本は予め用意されたものというよりは、旅人が読み終えたものを置いて出て行くのを繰り返し、たまりにたまって立派な本棚になったというケースが多いように思います。

こんな本棚の中にある本には特徴があると僕は感じています。

一つはメッセージ性強めのもの、もう一つはエンタメ性強めなもの。

前者は例えば『アルケミスト』とか、『旅をする木』とか。旅人の精神を鼓舞するような、あらゆる出来事に意味や意義を見出すヒントになるようなもの。

これは本自体というより、旅人同士のメッセージを感じる。ちょっと疲れたらこういう本でも読んで先に行こうぜ、みたいな。一人じゃないぜ、みたいな。実際、しばしば孤独を感じる旅先で、不意に日本語の本に触れ、束の間心強く感じたりすることもある。

また、そういった本からは、所有から離れる意識というか、誰かのために自分の本を置いていく行為そのものにも、その人の生き方というか思考のスタイルを感じる。

全体の中の一つであるという意識、そして身軽さの主張、その意義に対して意識的な、でも小さな行為、他人のために足跡を残すのはナルシズム。

そういうものを感じる。

これも一種の宗教と僕は思う。素晴らしいと感じることもあれば、そういう意識を持った人を苦手に感じることもある。

そういう生き方もあるのは分かる。何を信じて、どう振る舞うかというルールの規定は、神に頼らなくてもできる。

 

エンタメ性強めなものとしては、東野圭吾作品をやたら見るような気がする。

こういう本からは一変して旅とは違う日常を感じます。

誰かのために残すというよりは、空港で買った本だけど、読み終わったし、荷物になるし置いておくか、誰か読むだろうといった声が聞こえる。

東野圭吾作品に対する信頼感の表れだとも思う。これはまあ旅に疲れたたいていの人が楽しく読めるだろうというような。

実際、本当に疲れたら旅の意義も自分の精神性も考えるのはしんどくて、ただ消費するエンターテインメントに触れたくなることがある。安心する。

僕も旅先でメッセージ性強めのものに辟易することが多かったので、東野圭吾作品には助けられた記憶がある。

船の中には図書館がありました。

日本語の本がいくつかあって、やっぱり東野圭吾作品があって、クルーズというそもそもがエンタメ性高めの消費活動の場とあってから、本のラインナップは旅臭さを感じない。

いかにも空港の空き時間を持て余して買ったけれど帰りは荷物になるから置いていったという類のもの。きまぐれにシリーズものの中の一つを買ったけれど、家に持ち帰っても浮いてしまうなというもの。

『遥かなる水の音』を読もうと思ったのも、何かの縁なんだろうか。

感覚としては、東野圭吾作品を選ぶのは悔しいし、そもそもミステリーとか刑事ものって気分じゃない。もう少しフラットで無害な、人間ドラマを読みたいなと思って取った作品だった。

無難で平和な一冊を選んだつもりだった。でも僕にとっては有害図書でした。

亡くなった青年「周(あまね)」の遺言に従って、故人の姉・友人2人・同居してた同性のパートナーの4人で、サハラ砂漠まで骨を撒きに行くという話。あらすじを読まずに取った作品だけど、蓋を開けてみれば旅の香り強く漂う本だった。

死生観、結婚観、宗教観に関する問いになぶられながら読み進めていると、果たしてこれは新婚旅行で読むに相応しいものなのかどうか、分からなくなった。逆に相応しいのか?とか思った。

僕のセンサーが自然に選んだのだろうか。それとももっと今日お前がやったことを後悔したまえという何者からかのメッセージなんだろうか、分からないけれど、『遥かなる水の音』を読んで、ラマダンに関する記述が出てきたとき、日中のタイの経験がフラッシュバックした。

それから、日が昇り、日が傾き、夕刻六時に今日の断食の終わりを告げるアザーンが流れるまでの間、礼拝を繰り返しながらひたすらに長い時を耐えるのだ。信心深い老人たちともなれば、水を口にしないばかりでなく、湧いてきた唾まで飲みこまずに道ばたに吐き捨てる『遥かなる水の音』p109

マリーさーん!と叫びたい気持ちになった。

マリーさんが信号とかちょっとした渋滞で停車する度、ドアを開けて唾を吐きだす姿を見ていた。

僕はそれをメジャーリーガーがグラウンドにやたら唾を吐くようなもので、海外の男性は道端に唾を吐くもんなのかなと思いつつ、正直あまり良い気分はしていませんでした。

でも、信仰の表れだったんだと思えば印象は変わる。礼拝はしないまでも、マリーさんは敬虔な方のムスリム教徒だったんだなと思う。

途中、宗教を聞かれました。君らは仏教徒かい?と言われたけれど最初聞き取れず、え?なに?みたいになって、ようやく「ブディスト」と言っていることに気付くも、きっと平均的な日本人程度の宗教心の僕らは、どの神を信じるのかと言われても言葉につまる。

「一応そうです、仏教徒です」と答えると、タイのお土産屋さんの正面に坐しているお釈迦様の仏像を指さして教えてくれる。けれど僕らは「はあ」くらいの反応しかできず、多分かなりの温度差を感じさせたと思う。

 

 

いっそ僕らは特定の宗教を持たないとはっきり言えれば良いんだけど。

信仰心は薄く、慣習的に葬儀などは仏教式で行うし、本家には仏壇を備えている。体裁は仏教徒である。盆に死者を迎えるといった風習もあるけれど、それも季節的な行事か、家族に会う口実に過ぎず、仏教徒としての修業を行ったりはしない。

そもそも仏教と神道の区別もろくについてないし、神道ってなに?宗教なの?って感じだし、こないだは教会で式を挙げて、今まで一回も存在を感じたことのない神に永遠の愛を誓った僕らは、あらゆる宗教の良いとこどりで暮らしてる。コスプレ。

土台は限りなく単民族国家に近い国にも関わらず、列島を統べる単一の思想というものがないように感じる。それも僕らが頓着しないからそう思えるだけで、実は確固とした思想があるのかもしれず、かといってそういうものを押し付けられると拒否感がある。

隣人が何を考えているのかも、自分が何を考えているのかも分からないからすぐに揺らぐ。

だからと言って風のようにしなやかな国民性を持っているのかと言えばそれも違う。

頑なに目に見えないラインからはみ出さないよう、ごく小さい領域に根を張って生きているように思う。

見えるところは風任せに、自由気ままに見せかけながら、足元はがんじがらめになっているような感覚がある。そしてそれがそんなに居心地の悪いものでもなかったりする。とにかく船に乗りさえすればどこかに着くみたいなもので。意思がなくても生きていける。

それくらい、話せれば良かったんだけど、あまりに言葉が拙くて無理。日本語でだってこんなことうまく話せない。

車の中で、マリーさんにパンフレットみたいなのを渡されました。

トラの王国みたいなところとか、ワニのショーが見られるところとか、お土産屋さんとかいっぱいあって、マリーさんはあそこがタイガーキングダムだよ、どうする?入る?みたいに行ってくれる。

たいてい、うーん、まあいいかな、とりあえず、海に行きたい、あと買い物もしたい。そんな風に言ったけど、自分がなぜ海を見たいのか分からない。ただパトンビーチは有名みたいだから見ようと思ってたし、見たかったのは本当だけど、見て、それでどうなのか分からない。

この辺にも津波が来たとマリーさんが言ったけど、ろくな受け答えもできなかった。スマトラ島沖地震のことなんかもやっぱり念頭になかった。目当てのパトンビーチも大きな被害があったと言っていた。タイで5000人以上の死者。

僕らが見た車窓からは想像できないことで、あー、そうなのか、と思うしかなかった。というか何も思ってなかった。何を考えるべきなのかも分からなかった。

 

 

僕らは象には乗りたかった。わりと明確に、象には乗りたかった。

2人で象に乗って約30分一人1000バーツで、のっそりのっそり左右に揺られた。楽しかった。

タイでは象が特別な動物。特別な動物だってのにものすごい働いてて、複雑な気分になったけど、あと考えたことは「暑いなあ」ってことくらいで、頭が働かない。

 

船に帰って波に揺られながら『遥かなる水の音』を読む。

テキストが日中のタイで見た、いくつかの記憶と呼応する。

船の中では何度か時差調整のために時計をいじる。一時間進めたり、一時間戻したりする。

前後左右に揺さぶられる感覚がずっとある。タイのあとは特にこの感覚が強い。

象に、船に、時間と、そして場所に揺られ、精神的に足元が覚束ない感覚がする。不安に近い感情だった。だから本を読みたくもなったんだろう。逆効果っぽかったけど。

自分がどこにいて、どこに向かっているのか分からず、何を考えているのかも分からず、目が覚めたときに意思とは無関係に到着している場所にワクワクしつつも、そんな、自分の意識から離れたところで世界が動いているという不可解さが飲みこめない。

快と不快の波に揉まれた。不安げな浮遊感を満たすのは食事で、僕は、それはもうよく食べた。だから太った。

結局いつも問われるのは、「お前はなんなんだ、何がしたいのだ」なんだろう。

海外ではパスポートが大事、パスポートが大事。

アイデンティティを問われればパスポートを出せば良いけど、パスポートをいくら大事に持っていてもアイデンティティなんて備わらない。

ただ何となく、勉強せねばならないなあと思った。

帰りたくないけど、すごく帰りたいねと何度か、船の中で妻と話しました。

ずっとそんな感じ。定まるのが嫌だ、だからと言って流れたままも嫌だ。結局は決めるのが嫌なんだと思う。ずっとnow loadingみたいな船旅は心地よいけど、だからこそ早く終わってくれみたいな感覚もあった。

新婚旅行で良かったと思う。それ自体がもうすごくはっきりしてるから。目的として。

一人旅だと刺激が強すぎたんじゃないだろうか。

僕らは日本から来た無害な新婚の夫婦で、食べれるものを食べて、楽しく生きていれば良いのだった。少し選んで、自由を楽しみ、それができたし、すごく楽しかった。

ただ無知や、意思のなさというのは、全然無害ではないのだとタイで感じたとき、何より、そんな自画像が揺らいだのでした。

 

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