「役に立つ記事」の概念が高度になっている気がする!

ブログの書き方の基本は「役に立つ記事」を書くことだ。

もちろん好きに書いて良いし日記調でも良いのだけど、公開するからには多くの人に読んでもらいたいはずだし、自分が書いた記事で誰かに感謝されるのは良いものだ。

ブログに求められるのは悩みや問題の解決。

みんなキーボードに解決したいことを打ち込むから、その解答(回答)を書くのが基本。

キーワードを意識して、そのキーワードを打ち込む人はどんなことに悩んでいるのかを想像して、その人に解決法や答えを教えるつもりで書く。

このようにブログ運営のコツを説く人や本をたくさん見たのだけど、何となく、中学生が親に反発するように反抗していた気がします。

役に立つ記事を書く自信がなかったんですよね単純に。

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「役に立つ記事」の概念が高度になって来てない?

最近肩の力が抜けてきて(長めの、そして遅めの反抗期が終わって)、素直に「役に立つ記事を書こう」「人の役に立つ記事が書きたいな」と思うと、気付くことがありました。

何となくだけど、「役に立つ記事」の概念、高度になってきてない?

待って待って、難しくない?ってこと。

基本的に「役に立つ記事」って、疑問や悩みに対してズバンと答えが載っているコンテンツだと思います。

知りたいことが分かる。知りたいことが分かりやすく教えてくれる。

打ち込んだキーワード、その背後にいる人間、その人間の悩みや問題を解決するコンテンツ。

でも、何となく、本当に何となく、そういうコンテンツは書き尽くされてしまっているからか、一昔前のお役立ち記事、という感じがする。

まだうまく説明できないのですが、そんな気がしました。

もう少し具体的に説明を試みます。

役に立つ記事はだんだん高度になっているような気がするわけ

単純にキーワードに対する答えという記事はまだまだ読まれていると思います。つまり人の役に立っていると思う。

だけど、ここのところ大事にされる記事って、もっと高度なものになってるような気がする。

本当に肌感覚の話だし、単純にぼくが求めるものが変わったというだけなのかもしれないです。

もしくは、単純に僕だけが、ネット上の記事に求められるコンテンツの質が上がっていることに気付いていないだけで、「何を今さら」なことを言ってるのかもしれない。

でもしょうがない。今気付いたんだから。

無知を知ることができるコンテンツ

例えば、知らなかったことに気付くコンテンツ。

言われて初めて気付くコンテンツ。

僕の中では「隠居系男子」というブログがこんなコンテンツの宝庫です。

タイトルに惹かれるとか、検索して辿りつく、ということはあまりないけれど、読むと何か新しい視点が得られるような気がして定期的に読んでいます。

それを知ることで自分が変われるような気がするコンテンツ

最近ではクレメアさんのnote記事。

『#世界観の作り方』を読んで思いました。

読むと自分が変われる気がするし、読まないと損な気がしました。

手前味噌だけど、自分の記事で読まれないけど気に入っているものを

これね、僕我ながら良いところに気付いたなと思ったんですよ。

本当に手前味噌だけど、小説を書くときって主人公を不幸にしよう、傷つけようって思ってしまう人が多いと思うんです。その方が面白いし、誰かの傷に呼応できるような気がして。

だけど僕らってみんな、ちゃんと幸せ目指して行動するよなと思う。

常に幸せを目指して、より良くなろう、今よりもマシになろうって思う。

だけどうまくいかなかったり、邪魔されるから困るんだ。

不幸や傷を前提としたドラマを作りがちだからこそ、戒めとして書いた記事です。

小説を書くときに忘れがちな、「みんな幸せ目指して行動する」という当たり前のこと。

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