僕はわりとおしゃべりな方で、しかも話を聞くのもけっこう得意な方だと自負しているものだから、実はコミュニケーションが苦手という訳ではないのかもしれない。
だけどいつもいつもコミュニケーションには苦手意識を抱えていて、誰かとコミュニケーションを取らなければならない状況は過度に避ける傾向がある。
人によっては僕のことを無口な人間だと思っているに違いない。
確かに、僕はいつもいつでもおしゃべりというわけではない。なぜか話ができない、言葉が出てこない状況というのが数限りなくある。
簡単に言えば、ごく一部の心を許した人の前でだけ僕はおしゃべり。また、もう会うこともないだろうなーって人とは割と気楽に話ができる。
微妙に知り合いがいる可能性があるイベントにはできる限り行きたくないし、お祭りだって人がうようよしていて苦手。
ハンパに知ってる人に道でばったり会ったら最悪。たいてい見て見ぬフリをする。同級生に会ったりする場面だってなぜかやたら緊張する。
コミュニケーションが苦痛。コミュニケーションを取らねばならない環境が苦痛。
でも冒頭でも言った通り、僕は自分はおしゃべりだと思っているし、どんな話題でもというわけではないけれど人の話を聞くのも好き。
つまりコミュニケーションは好き。だけど人一倍と言って良いほどの苦手意識を持っている。
これは一体どういうこっちゃ、と僕はずっと思ってる。不可解。二面性があるとかそういうレベルじゃなくて、僕のコミュニケーション能力には0か1かと言ったようなふり幅がある。
ここまでで「あ、分かるかも」と思った方、のためになることが書けるかどうかは分からないけれど、ぜひついてきてほしい。ただの自分語りで申し訳ない。でも僕はいつでも自分に似た人に会いたいと思っている。
自分の言葉が通じない気がする
とても極端なことを言えば、僕はほとんどの人に「自分の言葉が通じない」という妄念を抱いている。
自分が話していること、自分が話そうとすることが、相手には意味が分からないんじゃないかと思ってしまう。
それは例えば、落合陽一氏が話す内容が次元違くてよう分からん、というようなことではなくて。
僕の話そうとするごく簡単な、普通の言葉がどこまで通じるのか分からなくなるケースがすごく多いということ。なんでそんなことになるんだろう。
多分その感覚自体は多くの人が抱いたことはあると思う。
例えば友達の子どもが小学校に上がるか上がらないかくらい。どんな風に話しかければ良いのか分からない、なんて経験がある人もいるんじゃないか。
自分の身近に同じくらいの子どもがいれば分かるかもしれないけれど、急に子どもと話そうとすると、いったいどの程度の言葉遣いで、どの程度の論理が通じるのが分からなくて、何を言って良いかまるで分からなくなる。
それと似た戸惑いが、例えば同級生みたいな身近な人だとか、電話の向こうに人に対して起こる。
語彙が違うと感じる、時間がないと感じる
もちろん、世の中のほとんどの人を、まるで子どものように思っていて、この人の知能だとどのくらいの言葉が通じるか分からないなあ、なんていけ好かないことを考えているわけではないです。
ただ、その人との関係が中途半端過ぎて、その人がこれまでどんな風に物事を見てきたのかが分からなすぎて、つまり普段どんな言葉を使って暮らしているのかが分からないから、自分がどんな言葉を使えば良いか分からない。
語彙が違う、と感じる。
自分と共通している概念とか、思考回路とか、世界観が分からないと無意識レベルで思ってしまって、どうしても探り探りになる。
また、自分は2秒以内に発言を終え、相手に投げかけなければならないという強迫観念に襲われることもある。
あまり長い時間、人は僕の話を聞いてくれないという風に思い込んでしまう。
こんな感覚に支配されるとき、支配される相手とのコミュニケーションが怖い。
僕は何も伝えられない気がするし、相手に愚鈍な人間だと思われているとさえ感じる。
時間をかけられるコミュニケーションを目指して
僕は自分のことがよく分からない。
コミュニケーションが得意なのか、それとも苦手なのか。
たぶんどちらも本当なんだと思う。
こんな男が民泊やるとか愚の骨頂に見えるかもしれないけど、振り返ると、十分な時間がかけられるコミュニケーションを好む傾向にある。
飲み会でみんなでワイワイ、隙をついて大声で発言を挟まなければならないシーンは苦手だけど、2人で飲みに行ったりするのは好き。
言うなれば小説を書くとかこうしてブログを書くという行為がもうスローなコミュニケーションスタイルの表れだと思う。
だから僕は同じような性質の人と、スローなコミュニケーションの時間を味わいたいと思っているんだろう。
良かったらどんな民泊を構想しているか見ていってください!
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