僕はファッションに疎い、というかほとんど興味がなくて、最後に服を買ったのは去年6月の新婚旅行前、ユニクロでしぶしぶ黒のパンツを買ったのが最後。
人としてもうちょっと身だしなみをきちんとしなきゃなと思うものの、興味がないので仕方ないとも思う。
興味がないというか、優先順位が極端に低い。
多少服を買ったところで財布がびくともしないなら自分なりにカッコ良い服が欲しい。
でも現状、シャツに3,000円使うんだったら本一冊買えるじゃんって思うと服買うのもったいねえなーってなってしまう。
そんな僕がファッションをどうこう言うのはヤバいと思うんだけど、服って何より似合うことが大事だよなと思うのです。
良い服を着たからってカッコよくなれるわけじゃない。
でも似合う服を着ていたらとりあえず変じゃない、くらいまではいける。
それで、この記事で書きたいのはファッションのことじゃなくて文体。文の話。小説の話。
どんな文体がかっこ良いのか、どんな文体が売れるのかと考えたりもするけれど、結局似合う以上にその人を引き立たせる要件はないんじゃないか。
思いつきだけど、どうしてファッションから文体に話が飛ぶのか、もしくは文体からファッションに結びついたのか、書いてみようと思う。
漫才見てて芸風も似合うことが大事だなと思った
小説じゃなくて、漫才見てて似合うことって大事だなと思いました。
僕はわりとお笑いが好きでよく見るのだけど、ボーっと見てると「ああ、漫才って文芸だよな」としみじみ感じるのです。
お笑いがこんなに流行るのだから、まだ小説とかそういう分野も盛り上がる可能性があるかなとか、そんな風に考えるともなく考える。
さて売れてる芸人さんを見ていると、ネタが面白いというのはもちろんだけど、芸風が本人にカチッとハマって、つまり似合ってる。
自分のスタイルみたいなのが固まってる。
例えば僕が最近ハマってる「かまいたち」のお二人。
ボケの山内さんは話が微妙に伝わらず「サイコパス的な」返答をするネタが多いです。もしくは異国の人間で、コミュニケーションスタイルが根本から違う、と言った印象を抱かせる。
それがなぜかやたら似合っている。
オードリーの春日さんも話が伝わらないんだけどサイコパス的とは違って「人造人間的」な話の伝わらなさ。見た目と相まって、レスコミュニケーションが板についてる。仕方ないよなあって気分になるほど似合ってる。
こちらはコントだけど東京03の角田さん。「はずれくじを引くのは角田さん」って決まってると思います。絶対にカッコ悪い役回りになって、お客さんは「角田崩れ」を待つような心境になる。そしてその役回りが似合ってる。
って挙げだしたらキリがない。
しかもわざわざ書くことかよってくらい当たり前のことを言ってる。
キャラが確立するってことでしょ?と言われればそれまで。
漫才のネタ自体はありふれてるけど、似合うスタイルによって面白くなる
自分に似合うスタイルを手に入れるっていうのは、だけどものすごく難しいことだと思います。
小説を書いていても思うけれど、やっぱり面白い話、ウケそうな話を探してしまう。それは漫才でも同じだと思うのです。
面白い話、ウケそうな話を探してしまう。
だけど、漫才で扱われるネタとかって、別に奇抜じゃなかったりしますよね。
「温泉っていいですよね」とか「ドライブデートって憧れなんですよ」とかって超ありふれた設定だけど面白い人がやると面白くなる。
それは各々が自分に似合うスタイルを持っていて、そのスタイルで以て話を脚色するから面白い漫才として成立する。
似合ってなければ高い服(高尚なテーマ)もブランド物(人気ジャンル)もモノにならない
似合う服を知っていれば安い服でもオシャレに着こなせるのと似ている。高い服を買っても、ブランド物を買っても、似合ってなかったら意味がなかったりするのと一緒で、まず理解すべきは自分、と言える。
小説でも同じで、自分にしっくりくるスタイル(文体)があって、それで以て話を脚色するから面白くなる。
このジャンルが人気、と言って頑張って書いたって物にならない。
じゃあ自分に似合うスタイル(文体)ってなんじゃって話になるんだけど、それはもう書き続けるしかないんだろうなと思います。
反応を見て軌道修正したり、書いてるうちに認知されて単純に似合ってきたり、服を着てみると感覚で分かるように、これが俺に似合う文体だわって感じたりするのだと思う。
いやそもそも、小説で言えば、つい書いてしまう話が毎回「核」が一緒だったりして、いわばそれが文体の元なんだろう。
その核をよく見つめて、それに似合う文体はなんだろう?と考えることが大事なんじゃないか。
いずれにせよ試行錯誤は大事だから頑張ろうと思った、という話でした。
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