経験価値と交換価値/「お金で買えないもの」とは何なのか

発想と行動を記録する

『父が娘に語る経済の話』という本を読んでいて、「経験価値」と「交換価値」の概念を知りました。

経験価値と交換価値は、対極にある。それなのに、いまどきはどんなものも「商品」だと思われているし、すべてのものに値段がつくと思われている。世の中のすべてのものが交換価値で測れると思われているのだ。

このあとの展開は何となく分かると思います。世の中には「商品(お金で交換できるもの)」になり得ないものがある、という話。それから、人は経験価値をけっこう大事にしている、という話。

しかし最近では経験価値を交換価値が打ち負かすようになった、と続きます。後に展開される 自分のことすら「市場価値」で測ってしまう という章タイトルにはどきりとしますね。

 

「経験価値」と「交換価値」という名前で認識していなくても、この概念自体はみんな知っているはずです。

例えば家に遊びに来た友達のお腹が空いて、「適当に何か作るよ」って感じで出した料理に「材料費と手間賃で500円支払わせてよ」と言われたら多くの人が「いやいや」って気持ちになると思う。そんなつもりで食事を作ったわけじゃないよ、となる。この感じは高確率で共感してもらえると思う。

しかし、この場合は経験価値で、この場合は交換価値で認識され、常にそのようにやりとりされている、なんて定めることができないのもまた事実ですよね。

何事にも限度はあるし、善意や好意でやってあげたいことでも、目に見える時間的、経済的損失が目立てば続けられない。

経験価値を認識する上で問題なのは、「損をすること」ではなく「続けられないこと」だと思います。

僕らは何にせよコミュニケーションを目的としてエネルギーを交換する。

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交換価値のドライなコミュニケーションと経験価値のウェットなコミュニケーション

最近強く考えるようになったのは、「価値を生み出すことは社会とのコミュニケーションを図るための行為だ」ということです。

価値を作り、世の中の漠然とした他者に対してどうですか?と問いかけること。それ良いですね、もしくはそうでもないね、というレスポンスがあること。価値を作り、交換するという行為は、自分の力で社会に参加する手段の一つなのだ。

もちろん、労働力として社会に参加すること、消費者として社会に参加することなど、いろいろなやり方があるけれど、いずれにせよ僕らは交換を通して社会とコミュニケーションを取っているんじゃないか。

このとき、交換価値とはどういうものなのかというと、「自分が差し出せる価値だけでやり取りする」ということだと思います。

自分が差し出したものを何かと交換したら、そこでそのコミュニケーションは一度終わる。一方はサービスや商品を差し出す。もう一方はお金を差し出す。それで終わり。

この一回性というか、刹那さ、後腐れのなさが、僕らの社会を円滑に回しているという側面がある。

一方「経験価値」というのは、コミュニケーションを継続を期待するものだと思います。交換と交換の間を埋める人間的な繋がりというか、もっと「こころ」に関すること。

友達のために食事を用意してあげたり、旅先で出会った誰かと雑談に興じたりすることは、少なくとも「コミュニケーションが続く」という期待の上に成り立っている。

なおかつ、それはあくまで「期待」するだけのことであり、実際に目に見える形で継続するコミュニケーションがあるかどうかは別問題です。

『父が娘に語る経済の話。』では献血の例が出てきます。

献血が有償の国ではドナーが少ない、という事例を用いて人がいかに経験価値を重んじるかを説くけれど、この例においても、つまり僕らが期待するのは「誰かと繋がっていると感じられること」や「自分の行動によって誰かが喜ぶかもしれない」という定量化できない有益さ。

このとき、対価を支払うというのはこころが期待するその喜びの大きさとか形を限定してしまうことです。

どれだけ自分の血液によって助かる人の嬉しい気持ちを期待しても、どれだけ予測できない形で他者と繋がる可能性があったとしても、500円と言われれば、500円でしかない。

僕らはしばしばこの定められないはずの価値をお金で定める行為に嫌気が差すけれど、市場社会ではこんな無粋が起きることがけっこうある。

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交換価値だけでは納得できず、経験価値を要求する人々と、交換価値と経験価値を分けたい現代社会

「交換価値だけでは納得できず、経験価値を要求する人々」がいると思います。

お金とサービスの交換というやりとりにも、過度な経験価値を求める人。

例えば、お医者さんには親身になって話を聞いてもらいたいし、コンビニの店員には愛想よく振る舞ってほしい。

当然の感情だとは思いますし、最低限の人間的なやりとりが必要なことは間違いありませんが(相手を不快にさせる必要はないですからね)、過度な経験価値を求める人はあまり尊敬できません。

風俗店の女性に本気の恋心を求めたり、いつも頼んでいるメニューを覚えておいて欲しいと思ったりするのは明らかにお金で交換できない領域の出来事。

お金で買えない価値を、お金を払っているからという理由で求めるのは理屈が通りません。

個人的な意見に過ぎませんが、お医者さんには病気を治してもらえれば良いし、美容師さんにトーク力が無くても問題ないと思うし、コンビニも、銀行も、無人にできるなら無人の方が良いとすら思います。

時代は明らかに「人の手間や感情を介さない価値の交換」の方向へ向かっています。

欲しい価値が明確で、それがお金で交換可能なら、その周辺の手続きはすべて排除しても構わないだろう、ということです。

これを指して、現代は心が貧しく人とのコミュニケーションが希薄だとか、ドライな未来像にディストピア感を抱く人もいるかもしれませんが、少なくとも若い世代の人はそれが杞憂だということを分かっているのではないかと思います。むしろドライなところはどこまでもドライに、という傾向の方にユートピアを感じると思います。

なぜなら、経験価値を求めるなら純粋に経験価値を追及したいからこその変化に違いないからです。

家族や友人との会話に精神力や時間を割く、近所でお世話になっている人に感謝しときには心の籠った贈り物をする。

時間を割くこと、こころを使うことは有限で、形として見えないから無暗に人に期待してしまいがちだし、何となくそれが人間的に重要なことだと思わされてきたけれど、過度にウェットなやり取りに疲弊してしまう社会では、もっとドライなメリハリを望む人が多くなっているのではないか。

仕事に経験価値を求める傾向もまた強し

一方で、純粋に交換価値でやり取りをするはずの「仕事」の場において、経験価値を求める傾向も現代人は強いと思います。

さっきは交換価値と経験価値は分けたいのだ(特に若い人は)、という話を書いたけれど、僕らの労働意欲は、ただ労働力を提供するだけでなくもちろん賃金を得るだけでなく、人間として成長したいと思うし、自尊心を満たしたいと思ったりする。

少なくとも目指すとすればそういう職場だったり、職種だろう。

ここにねじれがあることは否めません。交換価値は交換価値、経験価値は経験価値と割り切りたい一方で、交換価値で成り立つ市場において、自分の経験価値を優先しようとするのですから。

もちろんこれは僕がただそう思うだけで真実かどうかは分からないし観測不足だけど、自分が満たされる経験としての仕事がまずあって、その、満たされた経験の一面として「お客さんに愛される」とか「誰かの役に立つ」といった出来事がある、という感覚が僕自身にあるから、あながち間違っていないと思う。

嫌な言い方かもしれないけどかなり自己本位なスタンスで僕たちは生きていがちで、誤解を恐れずに言えば、良くも悪くも他者は自分のためにいる。

個として完結する意識の連続で成り立つ僕らの社会が 自分のことすら「市場価値」で測ってしまう 傾向と親和性が高いのはなんか分かる。

僕らは自分の価値を値踏みする市場社会に飲み込まれてしまっているけれど、一方で、定量化できない価値によって「商品」に成り下がることに抗おうともしている。

余談:創作活動を通して僕らは何を得るべきか?

 

以前、クラウドファンディングに挑戦しました。

 

【小説家対象!】負担なし賞金ありのアーティストインレジデンスを実現したい!
二人の作家さん(小説家)を地域に招き、滞在の負担をかけることなく創作活動に打ち込んでもらう賞金付きアーティストインレジデンスを個人で行います。民泊として運営している我が家とコワーキングスペース「旧佐藤医院」を創作の場として一定期間滞在してもらい、短期集中でご自身の創作を達成してもらいます。

 

旧佐藤医院を舞台に、作家が創作(小説の執筆)をする期間を設ける。

設定してもらった目標に達すれば賞金のような形で10万円支給する、というような催し?をしようと思ったのです。

これは残念ながら未達成となり実現できなかったのですが、「創作にはお金がかかる」ということを考慮に入れて、2週間の拘束に耐えうる代金を用意した上で、創作に打ち込んでもらえる場所を提供したいと思ったのです。

また、成果物に対して決まったお金を支払うのでは、出来を考慮に入れないということになり嬉しくない。だから純粋に「自分のまちで創作活動をする」という行為、「創作という自分との闘い」に対して対価を支払う方法にしようとしました。

振り返ってみれば、これは間違った考えかもしれません。

まだ本当に間違いだったのかどうか、自分の中で判然としませんが、創作というのは容易に経験価値を越えてはいけない領域のものだったのかもしれません。

しかし、だからと言って「創作環境と発表の場を設けるので作品を仕上げてください。その間報酬はでませんがよろしく」と言ったようなやり方が作家さんに負担をかけることはよく分かっていたので、こちらから「経験価値」に甘えるのも違うよな、と思うのです。

また、田舎では何かと経験価値を過剰に評価しすぎなところがあると個人的に思っていて、このあたりに対してドライでありたいとも思っていました。

キレイな空気とか家族と過ごすような親密な時間とか満点の星空とか、そういうものを商品にしないまでも、パッケージにしてしまえば経験価値が損なわれると僕は思う。

僕らは経験価値を蔑ろにしてはいけない。けれど、経験価値に甘えてもいけない。

その辺を考えたはずなのだけど、結果として実現せずに終わってしまった。

まだ悩みます。僕はこの挑戦を通して、誰かとの価値の交換というドライな関係を求めていたのか、それとも計り知れない未来に対するウェットなコミュニケーションを求めていたのか。

もちろんどちらもだと思う。自己本位なところもあったと思う。

 

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