「いま楽にしてやる」と思いながらコンテンツを作ろう

自分で考える創作論

「いま楽にしてやる」の視点が圧倒的に足りないのだよな僕は。

コンテンツは、文章にしろ動画にしろ、その他の何かにしろ、「いま楽にしてやる」の感覚が絶対に必要だ。

「楽(らく)」と「楽しい」に使う漢字が同じことをよく考えなきゃならん。

人間誰でも「楽(らく)」を求めてるんだ基本的に。

でも必ずしも「楽(らく)=楽しい」ってわけじゃないよね?

確かにそう。

そこのところまで一気に考えて、落としどころを探る旅に出る。

スポンサーリンク

楽=楽しいじゃない。楽に、好きという感情が乗れば楽しいになる

きっとこの章タイトルは正しい。

我ながら良いところに気づいたと思う。

楽=楽しいじゃないけど、「楽」という状況に、「好き」という感情が乗ったら「楽しい」になる。

良いところに気づいたとは思うけどうまい例があるかどうか……。

例えば僕は最近ご飯を食べるのが無性に楽しい。

この感情を掘っていくと、「楽」があるように思う。

家の中で、家族とご飯を食べる。なんて楽しい。

僕は精神が薄弱なので他人がいるとご飯の味がよく分からなくなる。

大勢で食べるのは本当に苦手で、当然のように飲み会とか好きじゃない。

そうとう気心の知れた人とじゃないと、ご飯は美味しく食べられない。

幸い僕はいま田舎暮らしで、人間関係も極端に小さく交流は乏しくて、もしかしたらこれを退屈そうだと思う人もいるかもしれないけど、僕にとっては安心そのもの。

外で、他人とご飯を食べなければならない、というシチュエーションが極端に少ない今、僕は非常に幸せで、かつ、昔はあまり興味がなかった食事の時間が楽しくて仕方ない。

楽だから。ほんと楽だから。根底に楽がある。

スポンサーリンク

好きになってもらう前に、楽を与えなきゃ

コンテンツを作るとき。

例えばこういうブログを書いたり、動画を作ったり。

そういうときも根底には「楽(らく)」が横たわっている方が良いのだと思う。

何かを作るときは面白いものを作らなきゃ、良いものを作らなきゃ、と当然考える。

クオリティを上げるんやって思う。良いものを作るんだ!って思う。

それは完全に正しい志だと思うけど、クオリティとか良いものとかの判断基準は自分を基準にするしかないし、そもそも「僕」がクオリティの高い人じゃなくて良い人じゃなければアウトプットも頭打ちで、自分なりに良いと思うものを第一にするのは結局独りよがりになってしまうんだろう。

例えば以下の動画を見てほしい。

あいや見なくて良い。キャプチャで写真を一つだけ貼っておく。
(あでも気になる人は下に貼っておくので是非見てほしい↓)

何を見てほしいかって言うと、字幕が小さいってこと。

PCでこれを読んでいる人なんかだと「そうかなあ?」って思うかもしれないけど、スマホで見るとめっちゃ小さい。他の人の動画を見ると、スマホを縦にしても楽々見られる字幕サイズになっていたりして感心する。

良いコンテンツ、面白いコンテンツを作る以前に、字幕が小さくて見にくいとか、そういうところによく気を使わなきゃならない。

「いま楽にさせてやる」ってそういうことの繰り返しだと思う。

音声で伝えるにしても文字で伝えるにしても、こう伝えた方が分かりやすいかな?とか、もう少し明るい方が良いかな?とか、もっと大きな声(大きな文字)じゃなきゃわかりにくいよなとか、そういうところに気を使えるかどうか。

でも「楽にさせる」にも限度があるし、好みや目的があるよね?

無限に気を使って、「楽」にさせていればよいのか?という疑問が当然湧く。

このブログにしてもそうだけど、何にしても文字を大きくしたり、文字を少なくしたり、大事なところは強調して、もっとテンポを遅くしてってどんどん見やすくやっていくと、コンテンツがどんどん子供むけ、お年寄り向けになっていくおそれがある。

バリアフリーなコンテンツは誰にも優しいかもしれないけれど、それを目指して損ねるものは多かったりする。

だからこそ、「一体どんな人を楽にさせるべきなのか」をよく考えなきゃいけない。

例えばこのブログは20代から30代の「創作する人」「考える人」に親和性を感じてもらえるように書いてるつもり。

僕はブログで文字が大きかったり強調が多かったりするとちょっと引くというか、流動食を食べさせられてるみたいで気持ち悪くなるのであまり好まない。

20代30代の創作する人、考える人ってのは結局自分がそうなりたいアイデンティティであって、だからこそ他人にもそれを求めて、その自己やら架空の他者やらを裏切らないような書き方がしたいと思うのは、つまり好みの問題なんだろう。

好みはこだわりや制限であって、そちらを重視すると「楽」が消えていく。

だから好みに起因するこだわりや制限はあって良いけど、その枠の中で最大限に「楽」を提供する工夫というのはしすぎて悪いことはない。

というようなことを考えたわけです。

動画コンテンツの「楽」と「好み」の配分

動画に関していえば、やっぱりメインは映像であって、文章については「楽」の比率を上げるべきだなと感じた。

PCで見る分には問題無いと思うけど、自分でスマホで見返すとやはり字幕の文字が小さくて読めなぁぁい!

普通に読むには画面を横にしなくちゃならなくて、その手間がある時点で見る気をなくしてしまうかもしれない。

また、文字が小さいうえに文字数が多いとも感じた。僕は書きたいし説明したいし喋りたいと思ってしまうので文字が過剰になるのだけど、動画のメインは映像である、という点に集中して、画像で好みを発揮すべきだろう。

【モーニングルーティン】和洋折衷な古民家でひきこもり執筆する小説家の悠長な朝のルーティン

今回の記事は以下のテーマと重なるところがありそうです。

自分の作りたいものを作るVS人が求めるものを作る
「自分の作りたいものを作るVS人が求めるものを作る」はクリエイターにとって永遠のテーマの一つではないでしょうか。「自分の作りたいものが世の中の需要にマッチする」もしくは「世の中の人が求めているものがたまたま自分の作るものだった」のいずれ...

コメント

タイトルとURLをコピーしました