阿部公房『他人の顔』エッセイ ~人は他人を通してしか自分を確認できない~

コミュニティ・メカニズム

阿部公房『他人の顔』の中にある一節。

幼児心理学なんかでも、定説になっていることですが、人間というやつは、他人の目を借りることでしか、自分を確認することも出来ないらしい。『他人の顔』新潮文庫 31p

これはね、本当に地獄みたいな話だと思います。

「人は一人では生きていけない」とかっていうけど、この言葉を受けて、「人と人は支え合って」生きているという風な、ハートフルな感じに持っていく傾向ってありますよね。

別に悪いことじゃないんだけど、僕はこれに少し抵抗があるというか、その日の調子によってはちょっと「けっ」って思ってしまうこともあって、本当はもっとドライな話だと思うのです。

人は一人では生きていけないというのは、他者がいなければ自分を認識することもままならず、自分が何なのかよく観測することもできないから、なんのこっちゃよう分からんようになる、という程度のことなんじゃないか。

「他人がいなければ不安を感じるような現象がなぜか僕らには起きる」というのが正確なところだと思う。

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現代における自分の顔とはなにか

現代において、「自分の顔」を持つということは大変難しいことのように思います。

SNSの時代になって、こうして誰でも「自分」を発信できるようになったばかりでなく、生活の活計(たずき)にすらなり得る以上、他人にどう見られるか?という点は非常に重要です。

自分らしく生きるとかっていうけれど、その自分らしさって人に与えられなきゃ実感できないものなんじゃないの、ってけっこう前から思ってて、以前は以下のような記事も書きました。

自分らしく生きるってなんだろう?

さらに以前には、以下のようなものも書きました。

「僕らはみんな人生の主役だ」は本当か。誰かに与えられる「主人公」というポジションについて

いずれも、僕ら他人に役割を与えられて、それに応えてるに過ぎないよねみたいな話です。

多様性が叫ばれ、レールから外れて生きる人が増えてきた。

レールから外れて生きるというのはひと昔前ならば自殺行為だったけれど、最近ではレールから外れ、自分の意志で道を選ぶことこそが生存戦略だという風潮すらあるように思えます。

自分の道、自分とはどういう存在で、どういう人生を歩む者なのか。

そういったことを模索しなければならなくなるに従って、自分の存在の不安定さというものがよく見えるようになる。

だから人の評価が必要になる。自分から、「私はこういう人間です」「こういう風に認められたいと考えています」ということを発信する。そして「いいね」を集めるのに必死になって、他人を通して自分を確認しなければ気が済まなくなる。

漠然とした他者から自分を逆輸入するような行為が、最近のハイライトなのではないか。

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他人ありきの自分について

自分にこだわればこだわるほど、他人に依存しなければならなくなる。他人の評価ありきで自分らしさが形成される。

この矛盾はだんだん大きくなるように感じます。

誰しも、自分の存在が不安定だと感じることは恐ろしく、不安なものだと思います。

何者でもなくなるということは恐怖以外の何物でもなく、この時代の気配に呑まれては、漠然とした不安を抱いたりすることもあると思う。

大学時代を思い出します。高校で部活を引退して、卒業して、大学生になって、バイトして、単位を取ったり取らなかったり、卒論書いたり書かなかったりして、一つずつそういう「らしい」ものを終えていって最後の方に就活があって、「ああ、そうか僕らは、所属する場所がなきゃいけないんだ」「何者なのかをインストールする必要があるんだ」

何もしなかったらどうなるんだろうなという好奇心も多分あって、僕は就活をしなかった。海外でワーキングホリデーなんかして、ああここでも「ワーホリメーカー」だなあと思ったし、帰ったら帰ったで一応「ライター」としてすぐに仕事ができたから本当の本当に何者でもない時間なんてそれほどないんだけど、僕は自分の不在を疑った頃からこっちずっと不安。

とりあえずの所属先とか肩書を持っていたって、納得してなかったら不安。ライターの名刺だってずっと作れなかったし、作ってもろくに配れない。そういうのが「大人」として未熟だということは分かるけれど、「自分」を身にまとって生きていながら、自分の存在を疑い続けるというのはとても怖い。

他人の顔は自分を失って不安な男の話

『他人の顔』はそういう話だと思います。

そういう話って、いや全然違うかもだれど、こうやって一応「人生経験」のようなものを踏んでから読む『他人の顔』には実感する部分が多く、二十歳の頃に読んだときよりずっと面白い。

僕はなんで男が他人の顔の仮面を作って妻に近づく必要があったのか全然分かってなかったし、顔を失う=自分を失うという恐怖や焦燥の部分にダイレクトな関係性というか実感が全然湧いてなかった。精神の不安定さとか衝動的な暴力とか、すべて異常のように見えたけど、そうじゃなかった。

不安は僕らをいくらでも狂わせるということを知るのに、けっこう時間がかかった。

もしかしたら、僕を含め何人かの人は「成功」したいんじゃなくて何より「安心」したいんじゃないか、と思うようになりました。

もちろん「成功」と「安心」を無理に分けて考える必要はないんだけど、それでもあえてどちらがより自分の願望に近いか?を問えば、私は安心したいと答える人はけっこういるんじゃないかと思う。

安心というのは、自分は何者で、自分は誰にとって必要な存在なのかが、一人でに、実感として分かる、ということ、じゃないかな。

過去にこんな記事も書いてました。

【レゾンデートル】自己完結する存在価値のはなし

『他人の顔』の顔を失った男は、安心を求めて狂った男の話なのだと思うのです。

人の顔を満たすまちを作ろう

さいごにまちづくりの話題に転じます。なんかアクロバットだけど。

地域がまちづくりとまちおこしと称してやってることとか、個人がやってることって、ポジション取りだと思う。自分はこういう人間だというものをアピールするのと同じようなことを町がやってたりする。

ただし、町と個人では、その目的に大きな違いがあるんじゃないか。町は成功したいと思っている、人は安心したいと思っている。

町は人に安心を与えられるだろうか。成功したい町は人口や税収や盛り上がりは必要としているかもしれないけれど、「人」を求めてはいないんじゃないか。

人は安心を求めて自分が何者かとして健全に生きられる場所を必要としているのではないか。

自分が「何者であるか」を信じられる場所というか、自分を疑わずに済む場所でしょうか。表現はいくらでもあるだろうけど、肩書や所属ではなく「アイデンティティ」や「レゾンデートル」を満たせる場所が必要なのではないか。

だからそういうことを意識して、僕は僕のまちづくりのために、どんな人を求めているのかを伝えなきゃいけないと思う。

さてしかし、これを「ビジネス」として考えるのはどうなのか。それこそ僕の自己認識像と食い違う。僕は僕の「アイデンティティ」や「レゾンデートル」が欲しいだけなのに、それを追いかけて自分を見失ってたら本末転倒です。

場所の実現=「まちづくり」に経済的な計算や気持ちの良い交換は不可欠だと思うけれど、人の不安を搾取するようなシステムにしないために、舵振りをしなければと思う。

阿部公房『他人の顔』エッセイ ~人は他人を通してしか自分を確認できない~(完)

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