【澤村伊智】『ぼぎわんが、来る』リアルタイム感想・考察

crop person turning door handle while entering houseリアルタイム感想
Photo by Charlotte May on Pexels.com

読書の記録、感想、考察をするとき、読み終わって、さあ書くか、どんな切り口で書こうか、と考えると悩む。

書評や批評のような文章を書いてみたいとも思うけれど、立派なものを書こうと思うと気が引ける。

とにかくブログで読んだ本のことをもっと書きたいけれど、なんやかんやスルーされっぱなしなのを苦にして、リアルタイムで感想を更新し続けるという方法を考え出した。

何も完成品を見せる必要もなく、読んだ途中の予想とか考察とかが結果的に的外れでもそれはそれで読書の一部なのだから、そういうことを今後はもっと記録していこうと思う。

前回はカズオ・イシグロ『クララとお日さま』で同じことをやったけれど、次第にこのスタイルも洗練させていければと思う。

今回は澤村伊智著『ぼぎわんが、来る』。

スポンサーリンク

細部の積み重ねがよくある怪談をリアルな、起こりそうな怪談に変える

2021年11月28日、読み始め。

この作品は映画『来る』を実は先に見ていて、とんでもホラーというかむちゃくちゃだけどなんか迫力あるなーみたいな感じで印象に残っていて、決して好きではないと思ってたのになぜか二回見ちゃった。

それで、つい昨日同じ作者の『怖ガラセ屋サン』を読み終わったのだけど(これもリアルタイム感想書けば良かったな)、これがなんか僕はすごく面白くて、ちゃんと怖いし、ホラー好きのパターン思考を知悉した上でエンタメ化してるみたいなかっこよさがあって、澤村伊智?澤村伊智ってそういえばあの『来る』の原作書いた人じゃなかったか?という経緯で『ぼぎわんが、来る』を読みだした。

よって大筋はもう知ってるので、今回書くのは映画との違いとかそんな感じになるのだろうか。まだ分からない。とにかくそのとき思ったことを書くのがこのシリーズの趣旨。

まだ20ページくらいまでしか読んでいないので本当に序盤だけど、「秀樹」が幼い頃、夏休みを利用して祖父母の家で過ごしていたある日の出来事が語られる(回想される)のだけど、僕はこの澤村伊智の語り口というか、文章が、とても怖く感じられる。

怪談は「それ関係ある?」って思うような細部の積み重ねが大事だと思っていて、細部との関わりによって、「よくある怪談」が「リアルな、起こりそうな怪談」に昇華されると思う。

いきなり話が逸れるけれど、何にせよ、「積み重ねたレイヤー」というものがそのクオリティを決すると最近思う。絵描きさんの動画とかを見ていると、そんなに工夫を重ねるんだ、そんなに色を重ねるんだ、という驚きがいつもある。そういう重なり、一見して分からない積み重ねの量と質(丁寧さ)が、素人目にも分かる「すごさ」となって顕現するのだろう、とか思う。

さて早々に『ぼぎわんが、来る』の話に戻る。

細部とは例えばどんなものか。

夏休み、大人になって考えてみれば貧しいと言っても良いだろう祖父母の平屋建ての一軒家、祖母は脳出血で要介護となった祖父と普段は二人で暮らしている。脳出血の後遺症で「まともな会話」はできない祖父と二人。ベッドの側でだらりと菓子を貪りながらマンガを読んでいる。そこへ訪問者が現れる。

これらの情報がとてもスムーズに頭の片隅へ丁寧に収納されて行く。要素を並べ立てるだけでなく、その並べ方に工夫が感じられる。

訪問者は最初祖母の名を挙げ、いるかと聞く、次に亡くなった叔父の名を出す、次に祖父の名を出す。

「ギンジさん、ギンジさん、ギンジさんはいますか。いらっしゃいますか」
銀二は祖父の名前だ。だが何故、三回も繰り返したのだろう。言い間違えたようには聞こえなかった。 角川書店 12P 

こういう文章がどこからともなく怖い。

すりガラスのドア越しの訪問者とのやり取りだけで、僕はこの話が面白いと感じた。

また明日書く。

【追記】
あ、そうだ、「ドア」。「ドア」ってのがなんか視覚的に、アイテム的に大事だと思う。怪談にとっても、この話にとっても。冒頭、「ぼぎわん」のことなんだろうが、を迎え入れる際にも、ドアが視覚的に目立つように書かれているように思う。

 

スポンサーリンク

11月29日追記 怪談と民俗学の組み合わせってわくわくするよね|ブギーマン→ぼぎわん

秀樹は「ぼぎわん」について、中学時代からの友人であり現在お茶の水で民俗学の准教授をしている「唐草」という人物に意見を仰ぐ。

怪談と民俗学の取り合わせって良いですよね。確か三津田信三の刀城言耶シリーズを読んだことがあるけれど、民俗学と怪異、そしてミステリーがうまく組み合わさってとても面白かった記憶がある。タイトルは失念してしまったけれど。

さて『ぼぎわんが、来る』の話。

「ぼぎわん」は「ブギーマン」に通じる、という記述が、瀬尾恭一という人物の著作の中にあることを唐草は指摘する。

ブギーマンは西欧の「お化けみたいなもんの総称で」、それらは決まった形をしていないからまとめてそう呼ばれる。それが日本に伝わって、「ぼぎわん」と呼ばれるようになったんじゃないか、みたいな話。

その部分を引用させてもらおう。唐草が瀬尾の著作から引用している部分だから孫引きみたいになっちゃうけど。

前略
『三重のK――近隣に伝わる妖怪、ぼぎわんはブギーマンに通じる。おそらく使節団の一部の集団から、ブギーマンの伝承が受け継がれたのだ。宣教師たちはキリスト教を持ち込んだが、妖怪もまた、はるか西方から大陸を横断し、海を渡ってやって来たのだ』――ってね」
はるか西方から。
海を渡って。

折口信夫の「まれびと論」では確か「まれびと」は海の向こうからやってくる、とかなんとか言ってなかったっけ、みたいなことを思い出した。

この話はさておき、先に映画を見てしまったのは失敗だったかもしれない。秀樹という男の軽薄さは映画で既に知ってしまっているので、秀樹の語りが白々しく見えて仕方がない。最初は映画のように軽薄な男じゃないのかもしれないと思ったけれど、子どもが生まれるだのなんだのの辺りからは完全に映画の妻夫木聡で脳内再生されてしまうようになった。

おそらく印象の転換が見どころの一つであろうから、映画を先に見てしまったのは愉しみを一つ損ねたことになってしまったかもしれない。

だけど内容云々だけでなくそもそも文章が面白いから読み進められる。

11月30日 追記 一章「訪問者」読み終わり

『ぼぎわんが、来る』めちゃくちゃ面白い。

映画は見たし、展開は色々知っているにも関わらず、それでもなお、面白い。

「ぼぎわん」のヤバさを伝える工夫が散りばめられている。

ちょっと知った風なことを言わせてもらうと、怪異とかそういう類のものって、きちんと出てきてしまえばしまうほど興ざめしてしまうものだと思うのですよね。

正体が分からない、意図が分からない、そういう感覚が恐れに繋がるわけで、見えてしまったり納得してしまうと恐怖心というものは損なわれてしまう。

作者はそこの塩梅をしっかり見極めて、最低限の具象で「ぼぎわん」を描写していると思う。

第一章の最後で「ぼぎわん」が秀樹の元を訪れ、姿らしきものが見え、やはりそれまでの怖さのラインは少し超えてしまったけれど、エンタメ的にとても良い絵。

そのころにはもう、第一章の語り手である秀樹の独善性や不誠実性が露呈してしまっているから、秀樹がばくっとひと思いにやられちゃう一種のカタルシスと、普通に可哀想って気持ちが交錯する。そこで章が終わる。

ぼぎわんのヤバさは「比嘉真琴の姉」なる人物の、遅れて来るヒーロー感を醸す演出がうまく嚙み合ってる。ぼぎわんなに?こわ、やば、という感情と一緒に、でもこのお姉さんが助けてくれるんだよね?という「高みの見物感」が組み合わさる。

対立関係にありながら作品中ではお互いがお互いの「期待値」を高め合う間柄になっている。

秀樹がマンションで「比嘉真琴の姉」の指示通りに「ぼぎわん」を迎え入れるシーンでは、それまで通話していた「比嘉真琴の姉」の言動が怪しくなり思考停止に陥っていると「比嘉真琴の姉」から家電にかかってくる上、指示が携帯と家電とで異なるというカオスが出来上がり、いよいよもうわけわからなくなる。

明日からは第二章を読む。

12月1日 第二章 香奈のパート

秀樹の妻である香奈のパートが始まった。映画では黒木華が演じていたから何となく黒木華で脳内再生している。

まだこのパートは読み始めだけど、秀樹の夫として、父親としての振舞いの醜悪さがどんどん暴かれる。

第一章の面白さとはまた違うテイストの面白さ、どことなく好奇心がそそられる、野次馬根性が刺激される展開で飽きない。ほんと面白いなこの小説。

12月3日 『ぼぎわんが、来る』第二章終わり 

 昨日(2日)はほとんど読書時間が取れなかった。

今日(3日)、第二章を読み終わった。

 二章では秀樹の妻である香奈を語り手として話は進み、秀樹亡き後の生活や、秀樹がぼぎわんに襲われる以前の夫婦生活、子育てのシーンが回想される。

 奥さんと子どもに優しくしなさいと、秀樹は過去に祖母から言われていて、それだけでなく真琴にぼぎわんの相談をしたときにも同じことを言われていたから、そこに何かあることは分かるけれども、その何かというのは香奈さんによってすべて明るみに出る。

 それにしても、子どもを持つ身としては化物に娘が狙われ続け、山へ誘われ続けるのは恐怖でしかない、けれど、この第二章は怪異の恐怖のみならず、エンターテインメントして楽しく楽しく、ぐいぐい読ませてくれる。

面白い本は読んでる時間ずっと楽しい。普段こんなにちゃんとエンタメみたいな小説ってあんまり読まないのだけど、読んで良かったと思う。他の作品も読んでみよう。

3章は野崎という男が語り手になる。野崎と真琴の事情、なぜ彼らが秀樹に協力することにしたのか。なぜ秀樹亡き後も、香奈と娘のちさちゃんの家を訪れて色々アフターケアを続けるのか。その辺は多分、映画ではあまり深堀りされず、察してくれ、という程度だったと思うので、読むのが楽しみ。

12月5日『ぼぎわんが、来る』読了 明るみに出ることの面白くなさ

『ぼぎわんが、来る』読み終わった。結論から言ってとても面白かった。

霊媒の比嘉琴子が非常に魅力的なキャラクターで、素直にカッコいい。そもそも僕は「霊能力者」というキャラクターが好きなのだ。現実の霊能力者というのには会ったことがないし、「自称霊感強い人」に憧れるというようなことはないけれど、例えば『地獄先生ぬ~べ~』の世界が僕は大好きだったし、『シャーマンキング』というその名の通り「シャーマン」が数多く出てくるマンガが大好きだった。

心霊、呪術に関することへの興味は小さな頃からあった。が、そんな僕が「呪術廻戦」を読んでいない、アニメも見ていないというのは、我ながら怠け者だなと思う。

さて『ぼぎわんが、来る』を読み終わって、まず構成的な部分で言えば、第一章で「ぼぎわん」のヤバさ、第二章で「秀樹」のヤバさ、そして第三章で「比嘉琴子」のヤバさが遺憾なく語られ、それらと現実を繋ぐ役割としてオカルトライターの「野崎」が配置されている、という感じかなと思う。

「野崎」の印象が章ごとに変わっていくというか、ドラマがあるとしたら実は「野崎」であるという点が面白かった。そしてそれぞれの章でそれぞれのヤバさが分かるように書かれるわけだけど、それぞれ小説としての面白さの質が違うというかなんと言うか、ほんと、エンタメとして優れていた。

すごく面白かったし、難しいことを考えずに読める本当に良い作品だと思うんだけど、これは『ぼぎわんが、来る』の文句ではなくて、「ホラー」というジャンルの小説について回る問題として、「因果関係」とか「動機」とか「理屈」が分かっていけば行くほど「怖さ」というのは遠ざかっていくよな、というのがあると思う。

これは本当に悩ましい問題で、この因果関係とか理屈が通ってないとお話として成立しないのだけど、通り過ぎていると怖くない、というジレンマがあると思う。

例えば『残穢』という小野不由美の作品などはこの「因果関係」とか「理屈」が良い意味で「ない」リアルなホラーとしてホラー好きを唸らせたと思うけれど、かと言ってこういう話ばかりではエンタメとしてのホラーはやっぱり人を選びすぎるんじゃないか、などと考えた。

映画との相違

特に後半は、映画と違うところが多いなーと思った。映画では松たか子演じる比嘉琴子が、秀樹のマンションに赴きぼぎわんを迎え撃つのだけれど、原作では妹である真琴のマンション。何より、映画版での仰々しい除霊が小説版では全く無かった。

仰々しい除霊とは、例えば各地から名うてのシャーマンを呼び集めること。マンション内の住人を全て退避させ、宗派も何もごたまぜにしてそれぞれがぼぎわんを迎え入れる儀式を行う。

「力の弱い」術者から次々と殺されてしまう。琴子の元にぼぎわんが訪れる頃にはマンションの外は血の海で、屍がごろごろ。映画の見せ場と言って良い場面。だけど小説ではそれが無い。普通に琴子と野崎が二人でぼぎわんと死闘を繰り広げる。

どちらが良いとも言えないというか僕はどっちも好きだけど、とにかく違うなと思った。

一応ハッピーエンドっぽいけれど、第二章の語り手である香奈が生きていたのが大きな違いかなと思った。映画では香奈はなかなか身を持ち崩して、男に走り、育児放棄をして、亡くなってしまう。

伴って、香奈の設定には色々と付け足されていたのが映画だったと思う。

その他小さなところでは、秀樹の友人で民俗学者である「唐草」が「香奈」に好意を持って接するという描写。小説では唐草が実はぼぎわんをおびき寄せる「魔導符」を香奈に贈っており、香奈への想いは遂げていないが、映画ではこの民俗学者と香奈はずぶずぶの男女の関係となっている。

映画ではこの民俗学者、津田という名前だけれど、小説では同マンションに住むいわゆる「家族ぐるみ」でお付き合いのある隣人が津田家族。

細かな違いを挙げていったらけっこうな分量になるからやめるけれど、とにかく映画版と小説版はけっこう違うところが多い。しかし、比嘉琴子のキャラクターはけっこう小説に忠実に映画がつくられていたんじゃないかなという印象。

いずれにせよ、深く考えず最初から最後まで楽しめる本当に面白い作品だった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました