都甲幸治著『21世紀の世界文学30冊を読む』に以下のような文章がありました。
冒頭からちょっと長めの引用で気が引けるけど、とても面白いことだと思うので共有したい。
先日書店の外国文学担当者と話していて、こんなことを言われた。最近、どの棚に置いたらいいかわからない本が多いんですよね。今の外国文学はいったいどうなってるんでしょう、と。
確かにその通りである。これまでの棚はどうなっていたのか。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツにイタリア、ロシア・東欧とアジア、アフリカが少し、といったところだろうか。すなわち国別、そして本が少ないところはまとめて地域別、という具合である。
中略
でも、困った作家が登場する。たとえば、ジュノ・ディアスはどうか。カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島はドミニカ共和局で生まれ、幼くしてニュージャージーに移民し、長じて中南米文学とアメリカ青春小説と日本のオタク文化のごった煮である『オスカー・ワオ』を書いて、ピューリツァー賞を獲った。しかも作品はスペイン語まじりの英語で書かれている。いったいこれは何文学なのか。 新潮社『21世紀の世界文学30冊を読む』14pより
アイデンティティが定められないという世界情勢の中で稀有な日本
アイデンティティが一つに定まっていたり、きれいに統一されていたりする例が少なくなってきたということです。
文学のグローバル化と言うべきか、文学の個人化と言うべきか。
アイデンティティをジャンルでくくる、ということが困難になり、一人のオリジナルの人間として屹立するようになった。
それが今の時代、ウェブの時代、なのではないでしょうか。
その点、日本は特異な風土を持っているかもしれない。
実際、アイデンティティが一つに定められないという感覚からもっとも遠い人がマジョリティを占める、世界的に稀有な国なのではないでしょうか。
日本人の父と日本人の母から生まれ、日本人として日本で過ごしたというストレートな経歴を持っている人が相対的に多い国。
移民の国と呼ばれることはなく、日常で言語を切り替える必要もなく、アイデンティティの混乱が少ない民族。
これはもちろん、文学においてメリットでありデメリットであります。
アイデンティティに統一感がなくなってきたのが世界情勢なのだとしたら、閉鎖的で画一的という特徴は逆にアイデンティティになりえる。
しかしその稀有な特色で以て世界と戦える厚みがあるのかどうかは不明だし、何となく世界に踏み出せていない、という印象があるかもしれない。
でもやっぱりアイデンティティはそれぞれオリジナルだ
とは言え、アイデンティティって国籍だけじゃないし、解像度の問題だったりする。
例えば性別が男女という二者択一の記号では説明できず、自分の身の置き場所が分からないという人はいるわけだし、その説明できない感は人によってバリエーションとグラデーションがあるはず。
また、日本では異世界転生ものが文学上の流行だと思うけれど、二次元と三次元(現実とファンタジー)の間でアイデンティティが揺れ動くというメンタリティをポップに表現するのがバリバリうまい人が多いということでもあると思う。
まだまだいくらでも言える。
北海道生まれのお母さんと、九州生まれのお父さんの間に生まれた子はなかなかの混乱に苛まれるんじゃないかと思うし、「共通言語」が「共有」できているものはそもそも少ない。
規制の「ジャンル・枠組み・分かりやすさ」に当てはめようとせず、自分の見たものを、自分の言葉で語る必要がある
結局何が言いたいのかというと、僕らは国籍だろうが性別だろうが言葉だろうが、規制の「ジャンル・枠組み・分かりやすさ」に当てはめようとせず、自分の見たものを、自分の言葉で語る必要があるのだ、ということです。
僕らは一人一人が自然にオリジナルです。
必ず自分の世界を持っており、それはこの世界の誰かにとってやたら魅力的だったり、驚きに満ちていたり、新鮮だったりする可能性がある。
そういう可能性と繋がっているのが文学だと思う。楽しいですね。
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