このブログでは何度か「日本人の宗教観」みたいなものをテーマに記事を書いたことがある。
このあたりだろうか↓↓
ネットは世間か、それとも神か。「恥の文化」と「罪の文化」について。
今日はこれに書き加えたいことがある。
前段として、うちのばあちゃん(我が家の向かいに住んでる)は今足を怪我しているんだけど、二階の階段廊下と言えば良いのかな?にある、表通りに面したブラインド(と、加えて寝室のカーテン)を開け閉めするために階段を上り下りしている。
階段を上らなくても良いようにリビングのソファベッドに布団を用意しておいたのに、そういう家族のケアを無下にするどころか嘲弄するがごとき、恩を仇で返す愚行であると僕は思う。
前述した通りブラインドは表通りに面していて、ばあちゃんの感覚からすると日中は開いていないと恥ずかしいし、夜は閉めないと恥ずかしいんだろう。
いやそれにしても愚行すぎる。いつもの、二階の寝室で寝るのであれば、夜階段を上りブラインドを閉め、朝ブラインドを開けて降りれば良いのだから上り下りは一度で済むのに対し、今のやり方では二度の往復が必要になるから、むしろ足への負担は増えている。
認知症が始まっていることを差し置いてもあまりに不合理すぎて、その人目の気にし方というか、外からどう見えるかに執着するのはもう何らかの宗教活動なんじゃないかってほど。
ああそうか、これは宗教活動なのだ。日本人の、特に古い世代の人間に根付いている信仰なのだ、と一旦考えてみる。
本当はただ習慣に囚われているだけかもしれないけれどとりあえず。
Contents
世間様教とは
日本人は無宗教と言われることが多いと思うけれど、形式的には仏教徒が多く、神道もかじっているしキリストの前で愛を誓ったりもする。
無宗教っぽく見えるのはそこにこだわりが無いからで、いずれの宗教もファッションとか習慣?風習?程度のものでしかなく、この点に関しては詳しく書く必要もないくらい、多くが自覚していることだと思う。
日本人にとって信仰の対象となるのは「神様」ではなく「世間様」であることもよく言われる、のかどうかは知らないけど、そう聞けば「あー、そうかもな」とは思う人が多いはず。
家の(それも二階の)カーテンが開いていたからと言って誰も見やしないよって思うけど、ばあちゃんの中には多分きっと「世間の目」がある。
世間様にみったくないと思われることができない、というか、世間様の目をかなり意識して生活を営んでいたりするんだろう。繰り返すけどただ習慣に囚われてる可能性もある。けどその習慣のかなりの部分、「世間様」を意識したように見える。
過度な、もしくは世間の目を気にすることがあまりに自然で不合理に気付かないレベルのものを半ば揶揄して世間様教と僕は呼んでいる。
ばあちゃんの件に関して言えばカーテンの件に限らず、トイレの換気のために小窓をあけておくと「外に臭いが漏れないか」をしきりに気にしてすぐに閉めてしまったりするのも同じ例のように思える。
世間様は基本的に目に見えない
こんな過疎地域、そもそも気にするほどの人通りなんて無い。
一応目抜き通りに面しているから人通りがないと言えば言い過ぎだけど、ブラインドが開いてるとか閉まってるとか、そんなことはどう考えてもどうでも良い。誰が人の家の窓やらカーテンやらを気にするのだ、と僕なんかは思うのだけど、あながち誰も見ていない、という訳でもないから田舎はあなどれない。
ばあちゃんが連日、「あんたの家の二階の窓みたいなのが見えるのはあれ網戸かい」と言ってくることがあった。壊れてはずしておいた網戸を外に立てかけておいたのが、窓が開いているように見えたらしかった。
認知症があるから、何度も同じことを言う。網戸を放置しておいたら毎日「あんたの家の二階にあるのはあれ網戸かい」と聞いてくる。気になって仕方ないらしい。
網戸を部屋の内側に入れ、カーテンを閉めれば何も言わなくなった。
ばあちゃんだけが特に人の家を気にしているわけでは多分なくて、みんな言わないけど、まだ我が家の庭の冬囲いが済んでいないこととか、夏の庭の処理されていない雑草のこととかを気にしているに違いない。うちのばあちゃんが気になることは、おそらく近所の人もみんな気になってる。
この、気にしている人の存在を知覚する僕の中にも世間様がいる。
世間様は基本的には目に見えない。自分の中にいて、時折世間の外側、つまり内側の人間(ウチのばあちゃんのような)の口を通して具現化する。
世間様教の信仰が薄い世代
過疎地域、人口2000人とかの町で、特に夜になど通る人間の数は本当に本当にごくわずかなものなのに、夜はカーテン、ブラインドを閉めておかなきゃ気がすまないのは、心の中に世間様がいるからなんだろう。
かく言う僕にだって「世間の目」を感じることはあるし、まったく気にしないと言えば嘘になるけど、例えば足を挫いて階段を登れないなら「カーテンを閉めなきゃ」なんて考えはまったく頭を過らない。
冬囲いだってしなくちゃいけないけれど去年は子どもが小さいこともあって外に出てゆっくり作業する時間がなくて結局そのまま放置した。試しに一年何もしないでみようかとか言って。
それは他人から見たら「だらしない」と思うことなのかもしれないけれど、その思われることにさしたる脅威を感じないのは、「世間様教」に対する信仰心が薄いからなんだろう。
それでもまだ、「周りからはだらしないと思われるだろうな」と思っているだけ世間様は僕の中にいるのは前述した通り。
だから近所の人と話す機会があったりすると言い訳がましく「いやあ、まったく手が回らなくてお恥ずかしいです……」とか「○○さんは毎年お庭綺麗にしててすごいなあ」とか言ったりする。
すると近所の人は決して「いやほんと、だらしないからせめて大きな雑草を抜くくらいしなさい」とは言ってこない。「冬囲いは早めに終わらせなさい」とは言ってこない。
「子どもがいるとそんな時間ないよね」とか「うちだって見えるとこだけなの」とか言ってくれる。
面白いのは、このやり取りそのものが「世間様」によってなされていること、だということだと思う(面白がってないで庭仕事しろなんだけどさ)。
世間様にコントロールされる日常会話
まず、僕が世間様をけん制する形で自分の家の庭の整っていなさの言い訳をする。世間の目を取り繕う。決して気にしていないわけではないんですよー、分かってるんだけどできないんですよーというアピールをする。
そうすると近所の人は僕を責めるようなことは言ってこない。優しい言葉は本心なんだろうけど、一方で「そうは言っても自分の庭がこんな風に放置されていたら自分なら恥ずかしくて堪らない」とは思ってるはずなんだ。
個人的な自分の考えと、世間様教的な考えが同居していて、人々はその思考を使い分けている。
隣近所の誰々さんは僕と話しているようで同時に世間様と話しており、世間様に対する礼儀として、他人を責めるような考えはおくびにもださない。ご近所との間に波風を立てるようなやり取りをするべきではないから。
世間様教の人々は本心を明かさない。
言い訳したり謙遜したりして、お互いにプラスの評価もマイナスの評価も受け取らないように気をつけてる。そんな風にやりとりを空虚にするクッションが世間様であって、そうやって言えばちょっと感じが悪いかもしれないけれど、世間様の威光を無視するとぼくらたちまち寛容さが損なわれることに気付いているから慎重を期さなければならない。
誰もが世間様の目を気にして、基本的には事なかれ主義な言動をとるようにしている。
翻って言えば、だからこそ、「少しでも他所の誰かが気になるような可能性のある弱みを見せない」という風な習慣が根付いていくのだと思う。きちんと毎日カーテンの開け閉めをするとか、庭の手入れをするだとか。
気にかけてるうちは寛容で、気にかけなくなると脅威となる世間様
世間様がいるからこそ人々は互いの領域にずかずか足を踏み込んで責め立てたりすることを避け、世間様がいるからこそ、世間様の目に触れないよう腐心するのだと僕は思う。「触らぬ神に祟りなし」の精神ってわけ。
ふだん、世間様は寛容に見える。ただしその威光が取り払われたときに生身に触れる言葉や視線があまりに痛いことが信者の間で知れ渡っている。
簡単に言えば「世間の目を気にしない行動を取っていると世間に容赦ない扱いを受ける」から、世間の目は気にし続けなきゃならない。
気にかけてるうちは寛容で、気にかけなくなると脅威となるのが世間様。
一皮むいたときの世間様の不寛容さ、視線の冷たさは報道番組が世間に作る空気感とか、町で流れる悪い噂とか、そういうのに触れたことがある人(つまりほとんど全ての人)なら理解していると思う。
この辺に話を広げるとなんだかとっちらかっちゃうから今度にするけど、かように世間様は日本国をお覆い尽くすような大きなナリをしていることもあれば、町を睥睨する程度の小さなナリをしていることもある。
田舎であれば共同体が小さいからこそ、つまり世間が小さいからこそ、小さなナリの世間様がいるのだけど、それはわりと硬い輪郭を持っていたりして、このことこそが、田舎の窮屈さを作っていると思う。
長くなりそうだからこの辺で切り上げようと思う。書いてるうちに粗というか穴というか、書きたいこととか考えたいことが増えて行った気がするので、この手の話は整理してまた書こうと思う。
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